斉藤真伸です。今回は「事件」と「ミュージシャン」の作品評です。
では、まいりますよ。
「2・26事件」
・銃剣の先で二月の東京に真っ赤な薔薇を咲かせ散る君
(新井蜜)
「2・26事件」(一九三六年)は、実は短歌の歴史と関係が深い事件です。この事件に関わりがあったとして処罰された軍人のひとりが斎藤瀏という人なのですが、この人は歌人で、代表的な短歌結社のひとつである「短歌人」の創設者のひとりです。
また、瀏の娘もまた歌人で、斎藤史(一九〇九ー二〇〇二)といいます。事件を起こした青年将校たちの多くとは顔見知りで、その処刑は史の生涯と歌業に大きな影を落としていると言われております。「2・26事件」についての史の歌としては、
・春を断る白い弾道に飛び乗つて手など振つたがついにかへらぬ
・濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
などが有名です。
さて、新井さんの作品ですが、結句に問題があります。「咲かせ」まではいいんですが、「散る」は余計。後世の人間は、「真っ赤な薔薇を咲かせ」た青年将校たちがどうなったかはよく知っていますから、そこまで言わなくていいでしょう。ですが、あの凄惨な事件の諸々のことを「銃剣の先」という具体物に象徴させたのはなかなかいいと思います。
「ネット集団練炭自殺」
・最後まで頼る相手を間違えてフロントガラスに母の幻影
(朝倉ここ)
すごい辛辣な歌ですね…。でも辛辣なだけではなく、「なんでもっと他に頼る人がいなかったんだろう」というやりきれない思いも込められています。「母の幻影」はちょっと疑問。「幻影」って、いかにも「詩らしい」言葉なんで、使うとかえって陳腐な印象を与えてしまうことがあります。「母の微笑み」とか、もう少し具体的な描写にするべきでしょう。それと、「最後」は「最期」にしたほうがいいかな。
「ブルーハーツ」
・帰り道リンダリンダを口ずさみペダルを漕いで駆け抜ける夜
(まいひら)
「リンダ・リンダ・リンダ」って映画面白かったですね。香椎唯好きだったので、オダギリ・ジョーと結婚してしまったときは悲しかった…。
それはさておき、シチュエーションとしては「ややベタ」ですが、曲の雰囲気とはよくあっています。ただし歌の後半はややゴタゴタしているので、もうちょっと整理したいところ。「夜」と体言(名詞)止になってます。体言止は印象は強まる反面、「余韻」というものが途切れてしまうことが多いので、注意して使いたい技法です。この場合は「夜を駆け抜ける」でもいいかな。果たしてどんな夜だったのか、もうちょっと描写が欲しい気もします。星がみえたか、それとも月の光がつよかったのか。または、乾いていたか湿っていたか。そういう描写ひとつで歌の雰囲気はまるで違ってきます。
・ラジオからはジプシーキングス 向日葵の金の地平にただ風渡る
(虫皮)
下句の情景がすばらしい。まるでちょっと昔の洋画のワンシーンみたい。「向日葵の金の地平」という物言いも、思い切りがあって面白いです。しかも美しいし。瑕があるとすれば、五句めの「ただ」でしょうか。こういう言葉って変に意味ありげだから注意した方がいいですね。
「意味ありげ」な言葉って、歌の雰囲気をくどくすることが多いんですよ。「風吹き渡る」で十分だと思います。初句も六音で破調ですから、できれば「ラジオから」で収めたいところ。
前回のエッセイで吉川宏志さんの作品を紹介しましたが、彼の歌は、「眼に見える具体物」からまず出発します。
短歌(特に写実派の歌人)が具体的な「モノ」や「コト」を詠むのにはきちんとした理由がありまして、それは自分の思いや情感をそういった「モノ」や「コト」に代弁させているからです。
吉川さんが高い評価を得ているのは、そういった短歌の技法を現代歌壇に再認識させたという点も大きいのです。昔の歌人はさかんに植物や花を詠んでいますが、それも理由は同じです。
昔の人間にとっては、そういった「自然物」に自分の感情を乗せることに、十分なリアリティがあったということです。
ですけど、現代に生きる人間と昔の人間とでは、「自然物」に対する「リアリティ」がまるで違います。詳しく述べていくと大変なので、はしょって話しますが、現代人は「自然」というものに対して、それほど強い「リアリティ」を感じなくなっているのではないでしょうか。また、「環境問題」も、現実の驚異としてわれわれの上にのしかかっています。
そういった情況のなかで、「新しい自然観」に基づく「自然詠」を作り出すことができるのか。これは今の歌人に与えられている課題なのかもしれません。
笹 師範 2008-02-10









