こんにちは。笹師範です。あいかわらず『笹公人の念力短歌トレーニング』(扶桑社)の原稿で、修行のようなカンヅメ生活を送っておりますが(かなり時間のかかる作業で、ようやく6割くらい終わりました)、
うれしいニュースもありました。
桜庭一樹さんの直木賞受賞です!桜庭さんは、かねてからいろんなところで笹短歌の愛読者だと公言してくだっていて、
『野生時代』(角川書店)の桜庭一樹特集でも『念力図鑑』(幻冬舎)をフェイバリット本として選んでくださったり、
『桜庭一樹読書日記』(東京創元社)に「念力三部作」について書いてくださったりと素晴らしい御方で、また僕も桜庭さんのファンなだけに、今回の直木賞受賞は自分のことのようにうれしかったです。
桜庭さん、本当におめでとうございます!!
直木賞といえば、
朱川さんですが(僕の中では)、
朱川湊人×笹公人
「遊星ハグルマ装置」
最新の回「暗号あそび」by・朱川湊人
本日公開されました!
今回はちょっぴりブラックなショートショートです。
ぜひご覧ください!
もうひとつうれしいニュースを。「遊星ハグルマ装置」のイラストを描いてくださった
諸星大二郎先生の『栞と紙魚子』が日テレでドラマ化されました!
去年、NKH-BS「マンガノゲンバ」でこの作品を取り上げて
レビュアーを務めさせて頂いただけに、よけいにうれしかったです。
よかったですね。
しかしこういう時は短歌をやっててよかったと思うね。小説書いても誰にも褒められないと思うもん。下手クソだから。
下手というかあまりのキテレツさにあの久世光彦先生が絶句したらしいですからね・・・。
直前になって『念力姫』への収録を見送った処女小説「昼下がりの儀式」ね。あれがあまりにもひどかったから久世さんの寿命を縮めたという噂もあるくらい・・・。
恐怖新聞かよ!
またつのだじろうネタでフィニッシュしましたが、斉藤真伸さんの「バックナンバーを読む」第2弾を公開いたします!
第2弾は、「酒」「格闘技」「魚介類」の回です。
あいかわらず鋭い歌評です。
では、お楽しみください。
よろしく哀愁☆________________________
では、まいります。(シャキーン)・カンパリのグラス透かせば叱られて夕日の中を歩く子がいる
宮田ふゆこ
カンパリ(言葉の響きもいい)というちょっとお洒落な感じのお酒と、寂しい思い出との組み合わせがいいです。固有名詞の歌って、作者の言葉のセンスがモロに問われるんですが、この一首を読む限りではこの作者のセンスはなかなか優れているようです。「歩く子」は作者自身として読むべきでしょう。
うまく作られていますが、改良する余地がないわけではありません。三句「叱られて」がまだ動きます。「うつむいて」とか「ベソかいて」とかした方が、より「目に見える」歌になります。ちょっとしたところを「具体的に」表現できるかどうかが、歌の優劣を決めるのです。
・どの酒も同じコップで呑む父を本物の酒呑みだと思う
カー・イーブン
なんかものすごく変わったところで自分の父親の人物像を捉えてますね。こういう「父親の歌」はちょっとないのではないでしょうか。まあ贅沢を言えば、どういう「コップ」なのか描写が少しでもあれば、もっと「父」の人物像が鮮明になるんですが。一口に「コップ」といっても様々な種類がありますので、お父さんにピッタリなのを選んであげてください。たとえば「タンブラー」だとこうなるでしょう。
・どの酒もこのタンブラーで呑む父を本物の酒呑みだと思う
これは余談ですが、僕の配偶者が持ってたワインの本をたまたま読んだら、ワイングラスだけでもものすごい種類があったんで驚愕しました。
・さすらいの蜂蜜売りは知っている 馬場さんが欅だったことを
笹井宏之
故ジャイアント馬場さんの風貌は、何人をもってしても替え難いものがありますね。それをこの一首は「馬場さんが欅」だったと大胆に表現しています。これはちょっとうなってしまう。
しかし発想はいいのですが、この歌には大きな問題があります。下句で「句またがり」を使っていることです。これは「意味のうえでひと続きの語句が二つの句にまたがっていること」(三省堂『現代短歌大事典』)です。俵万智さんの歌でもよく使われています。
しかしこの歌の場合、四句五句の計十四音にむりやり収めるために無理やり使われている感じがします。ちょっと言葉を動かせばもっときれいに収まるのに。
・さすらいの蜂蜜売りは知っている ジャイアント馬場は欅だったと
結句は一音か二音足りない方が余韻が増す場合があるので、この場合最後の「と」はとってしまってもいいかもしれませんね。ちなみに馬場さんの本名は「馬場正平」といいます。
・さすらいの蜂蜜売りは知っている 馬場正平は欅だった
「句またがり」とは反対に、「一句または複数句が、意味的に二つ以上の文に割れていること」(同)を「句割れ」といいます。どちらにせよ必要のないときには使わない方が無難です。
・力道山の空手チョップに団欒の祖父の血潮のしづかに炎(も)える
鶴太屋
光景としてはギャグ漫画に既にありそうですが、歌としては非情にきちんと整っています。ただ三句の「団欒の」という語がうまく収まっているかどうかは疑問です。「ちゃぶ台の」なんてやっちゃうと、ますますギャグ漫画っぽくなってまずいかな。こういうときは枕詞を使うといいかもしれません。
・力道山の空手チョップにたまきはる祖父の血潮のしづかに炎(も)える
「魂極る」(「たまきはる」、新仮名だと「たまきわる」)は本来、「命」とか「われ」にかかる枕詞なのですが、血が燃えたぎっているおじいさんにはピッタリかなと思って使いました。枕詞は基本的に言葉の意味自体には関わりませんので、この空白をうめたいけど、なかなかいい言葉がないなーなんてときには有り難い場合があります。古語辞典の巻末なんかに一覧が載ってますので、一度目を通してみてください。
・深海の魚の何にたとえればこの絶望は受容できるか
異能兄弟
数年前、おまけ付きお菓子(いわゆる食玩)ブーム真っ盛りの頃、某社が海洋深層水を使った飲料のオマケに深海生物のフィギュアを付けたことがありました。フィギュアの出来もさることながら、深海生物たちの珍妙さ(もちろん人間の主観なんですけど)に魅かれて、僕もけっこう買ってしまいましたよ。
それはさておき、発想はなかなか面白いと思います。でも結句の「受容」が惜しいなぁ。漢字の熟語ってどうしても堅苦しくなります。「この絶望に耐えられるのか」とか「この絶望を飲み込めるのか」とかした方が、歌に込められた作者の感情に切迫感が出てきます。「受容」では、どことなく他人事っぽいんですよね。
ちなみに上記の「深海生物」食玩を集めていたことの僕の一首。
・深海のコウモリダコの如くには光れぬゆえにあやふやに笑む (斉藤真伸)
・海老天のしっぽも残さぬひとだった 転居先不明の賀状の朱印
沼尻つた子
「海老天のしっぽも残さぬひとだった」という人物像が面白いですね。いろいろな人柄が想像できますが、少なくともあんまりおおらかな人物ではなさそう。下句の「転居先不明の賀状の朱印」も効果的ですね。あれこれ言わず、事実のみで詠いおさめたのがいい。あれこれ言って説明過多になってしまった作品がなぜいけないのかというと、余韻が無くなってしまうから。言い換えれば読者が想像する部分が無くなってしまうからです。
あ、いまうっかり「事実」って書いちゃいましたけど、それが「現実にあったかどうか」はまったく問題にする必要がありません。あくまで歌の上での「事実」であればオーケーです。
この歌の場合、「説明」は必要最低限のものだけなので、読者の想像する余地が大きいのです。それは読者を信頼してるということでもあります。
次回はエッセイを書こうと思います。笹 師範 2008-01-18









