2008年10月16日

「秀歌鑑賞」by・斉藤真伸


「つらい電車です」


えー、全世界の「眼鏡っ娘マニア」の間でいま話題沸騰中なのは、時期アメリカ副大統領候補サラ・ペイリン女史だそうですが、それはさておき、「眼鏡」という言葉を聞くと思い出すのは次の一首であります。

・わが体(からだ)なくなるときにこの眼鏡はどこに置かれるのだろう

 「眼鏡は顔の一部です」なんてCMコピーを思い出した人もいるかもしれませんが、この歌の場合、眼鏡は顔(肉体)とはあくまで別物です。ホントに「顔の一部」と思っているのなら、わざわざこんな心配はしないでしょう。むしろ自分の人生の相棒として、作者は眼鏡を捉えています。
 それと、この歌で注目してほしいのは、眼鏡を擬人化していないことです。表現のうえでは、あくまで眼鏡はモノとして扱われています。ですから眼鏡は「どこへいく」でも「どうなる」でもなく、「どこへ置かれるのだろう」なのです。
 この歌の作者は高瀬一誌といいます。一九二九年に東京で生まれ、二〇〇一年に七十一歳で没しています。長年、歌誌「短歌人」の編集発行人を務め、多くの歌人を発掘した名伯楽として知られています。掲出歌は、砂子屋書房から二〇〇二年に刊行された遺歌集『火ダルマ』(すごいタイトルだ)から引きました。
 ところでこの一首、なんかへんだと思いませんか? そうです、五七五七七のうち、三句目の五音が欠落しているのです。これが高瀬短歌の特徴で、この人の作品には五七五七七の定型を守った作品がほとんどないのです(多くは三句目が欠落しています)。ついでですからこの歌集から別の歌も引いてみましょう。


・うまそうな食事の匂いをつくる人はやはり男の五十代だったな

・からっぽのミネラルウォーターのボトル蹴る最後まであそべ

・森永ミルクキャラメルこの人は幾つ持っているのだろう



 こんな歌を詠むくせに、弟子筋の人間には生前、「定型をきちんと守れ」と言っていたそうですから、もうわけがわかりません。もしかすると、短歌定型を壊すことによって、逆説的にその定型の力を再認識させようとしていたのかもしれません。そう思ってこれらの作品を読むと、短歌特有の形式美がきちんと残っているから不思議です。

 ところで、この歌は実はある歌の本歌取りなのです。元になった歌は次の通りです。

・私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるだろう

 この歌の作者は山崎方代。一九一六年に山梨県で生まれ、一九八五年に七十歳で没しています。戦争で目を負傷してからは定職にはほとんどつかず、漂泊の人生を過ごした歌人です。しかしながらその口語を使った独特の文体にはしみじみとした味わいがあり、いまなお多くの人々に愛されています。この歌は一九八〇年に刊行された「こおろぎ」という歌集に収録されています。

 二人の作品を比べてみると、おなじ「死」というテーマを扱いつつも、方代作品の方には懐かしいような温かみがあります。もしこれが「母」の歌だったらベタベタで読めたもんじゃないでしょう。やはり「父」だからいいんでしょうね。
 しかし高瀬作品は、冷徹なまでに自己を突き放したところがあります。この厳しさは余人を寄せ付けません。「本歌取り」というのは、本来元の歌を尊敬・尊重した上で行うべきなのでしょうが、高瀬作品の場合、方代の本歌に喧嘩を売っているような印象すらあります。
 小高賢さんという歌人は、「現代短歌の鑑賞101」(新書館)というアンソロジーの解説で、高瀬作品と方代作品が「口調、リズム」において似ていることを指摘しつつも、「しかし、(高瀬作品に)方代の愛唱性はない。高瀬はずっと散文的だ。そいて大事なところは詠嘆を拒否するところだろう。詠嘆なしの短歌の可能性はあるのか。」と、非常に興味深いことを述べています。

 高瀬さんの死因は癌で、年譜などを読むと相当な長患いだったようです。

・ガンと言えば人は黙りぬだまらせるために言いしにあらず

 これも『火ダルマ』から。この歌を最初読んだときには、「上っ面の同情を拒否する気高き精神」を感じたのですが、再読してみるとちょっと違うような気がしす。「おれを“そのうち死んでしまうかわいそうな人”みたいなフィルターを通してみないでくれ。ガンだろうがなんだろうがおれはおれなんだ」という、実に人間的で悲痛な叫びを感じました。

 なんかテーマ的に辛気くさくなってしまいましたが、高瀬さんの歌は虚心に読んでいくと、言葉の楽しさ・面白さをたっぷり感じさせてくれるものばかりです。たとえば次のような作品なんて、他の歌人には百年経ったってとても作れません。

・伊良部の馬鹿が伊良部の馬鹿が環状線はつらい電車です


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2008年05月09日

『抒情の奇妙な冒険』一首評 by・斉藤真伸

おかげさまで、「風呂」の総評をほとんど書き終えました。UPしようと思ったら、斉藤さんの一首評が届いたので、先にこちらをUPさせていただきます。
ちなみにこの金田一耕助のオマージュ短歌は、劇団☆新感線の「犬顔家の一族の陰謀〜金田真一耕助之介の事件です。ノート」
(作・演出 いのうえひでのり 出演 古田新太 宮藤官九郎 勝地 涼 ほか)という舞台のパンフレットについた角川文庫のパロディー文庫本に発表した歌です。

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ほかの執筆者が、中島かずき、戸梶圭太、大倉崇裕、米光一成、ほしよりこ、喜国雅彦、大森望、(敬称略)などなど超豪華で、執筆者のみなさんと一緒に舞台を観に行ったのも良い思い出です。おもしろかったなぁ。
では、お楽しみください。

よろしく哀愁☆

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「この人が村に来たら要注意!!」

こんにちは。斉藤真伸です。

アシスタントのカワです。

前回に引き続き、笹師範の『抒情の奇妙な冒険』の一首評をやっていこうかと思います。
今回取り上げるのはこの歌!


血塗られし系図の上を駆けてゆく黒い羽織をひらりなびかせ


「角川ジェネレーション」という章のなかの、一首ですね。

いわゆる「角川映画」の映画史的評価については、映画評論家にまかせるけど、金田一耕助を国民的なキャラクターにした功績は大きいね。

そりゃまたどういうわけで?

一時期の日本の推理小説って、松本清張に代表される「社会派」一色になってたんだ。だから、金田一シリーズのような、おどろおどろしい伝奇ミステリの面白さを日本人に再認識させた功績は大だ。
 金田一ブームがなければ、いわゆる「新本格」や、京極夏彦だって存在できなかった可能性もある。その意味では日本のミステリの多様性を守ったとも言える。

実際の作品について語ってください。

上句の「血塗られし系図の上」ってのは、金田一シリーズの特色をよく言い表してるね。金田一さんの扱う事件って、因習や伝統に縛られた大家族で起きる殺人事件が多いから。で、そこを「駆けてゆく」としたのも、躍動感があって面白い。
 しかし、下句の描写も読み落としてもらいたくないね。

どうしてです。

上句だけだと、どうしても作者の「機知」が勝った印象になっちゃうんだ。「機知」だけで作られた歌って、案外面白くないんだよ。そこへいわば「血肉」を与えるのが「黒い羽織をひらりなびかせ」という描写なんだよ。金田一さんのあの野暮ったい和装って、映画やドラマでもうお馴染だから、読者の心にイメージがぱっと湧くしね。ここで読者の「感心」が「感動」に転換されるんだ。

歌集に「金田一シリーズ」と銘打たれた歌は三首あって、この歌はその真ん中の作品ですね。他にもう一首取り上げてみます。


廃駅に兆せる凶事のまぶしさに金田一耕助が手を振る


「廃駅に〜」も、金田一シリーズをよく捉えた一首だね。やはり「手を振る」という動作が効いている。
 山梨の某所に、金田一シリーズの原作者・横溝正史の記念館があるそうだから、今度笹師範を誘って一緒に行こうかな。
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2008年05月02日

秀歌鑑賞 (by・斉藤真伸)

みなさんおひさしぶりでーす。斉藤真伸です。

アシスタントのカワです。

さて、いよいよ発売になりました笹師範の第三歌集『抒情の奇妙な冒険』。今回から数回に渡りまして、この歌集の一首観賞をやってみたいと思います。

具体的にはどういうところを観賞するつもりなの?

そうだね、みんな意外とこういうところを読み落としているんじゃないかなーって部分を、僕なりに観賞していこうと思う。それと、みなさんが実作をやる上で、具体的にどういう部分を参考にすべきかというところも解説したいね。さて、まず第一回目はこの歌を取り上げたい。


もう誰もぶら下がらない健康器にぶら下がりいる不成仏霊


なんか怖いのかシュールなにかよくわかんない歌ですね。

笹師範の歌には「霊界ネタ」の作品が数多くあるけど、これはこのなかでも出色じゃないかな。「不成仏霊」という言葉のインパクトを除けば、ずいぶんとシンプルな作りなんだけど。
 ところで、怪談噺に出てくる幽霊たちって結構不条理じゃない? 「えーっ!? なんでこの人に祟るの!?」とか「えーっ!? なんでこんなことするの!?」とか、現世の人間からすると「筋が通っていないことも珍しくない。

まあ、生きている人間とはすんでいる世界が違うからかもしれないけど。

その怪談噺のある種の不条理性が、この歌の下句「健康器にぶら下がりいる不成仏霊」によく表れている。じっくり味わっていくと、この「不成仏霊」の行動の意味のなさが、不気味な光を放ってくるね。

ふーむ。

「もう誰もぶら下がらない健康器」を、この家の「隠された(もしくは隠そうとしている)過去」の暗喩として読んでも面白いぞ。

シンプルなのに、いろいろ深読みできる作品ですね。

実作をする上で学ぶべき点はそこだね。歌のポイントが決まったら、あとは余計なことを言わずに、そのポイントが光るよう言葉を絞り込んでいく。これが出来るか出来ないかが歌の出来を決めてしまう。

ところで笹師範の幽霊の歌って、何に影響受けているんでしょうか?

新倉イワオさんの「あなたの知らない世界」の影響があるのはまず間違いないと思う。これは昔、日本テレビのお昼のワイドショーでやってたコーナーで、一般視聴者の怪奇体験を再現ドラマにしたものなんだ。けっこう怖くてさ、トラウマになってる人も多いよ。

真っ昼間から怪談観たって怖くないでしょ。

それがさー、意外に完成度高いんだよ。それに解説の新倉イワオさんの語りがうまいから説得力満点で…。

次回はどんな歌とりあげるんですか?

次回もけっこう怪奇系だよ。ではこのへんでさようなら。
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2008年04月16日

秀歌鑑賞(by・斉藤真伸)

斉藤真伸です。
負傷した西郷どんが昼寝するほの暗き春の保健室なり 
(笹 公人)         

『念力図鑑』(幻冬舎)より


西南戦争の最後の激戦である城山の戦いで西郷隆盛が負傷し、その後自決したのは確かな史実である。
だが、この歌に詠まれているのは史実の西郷隆盛ではない。日本の民衆の心のなかにある西郷隆盛である。
そう、兵児帯をしめて犬を連れている、あの上野の西郷隆盛像のことだ。民衆はあの像を、好もしい日本人の代表として長い間親しんできたのではないか。
笹公人は「正史」は詠まない。彼の作品の住人である漫画やアニメのキャラ、超能力少女や幽霊などのオカルト世界の人間たちは、現代の「正史」からはことごとく漏れ落ちてしまう存在である。
だが笹の手にかかれば、たとえ「正史」の住人であろうと、この歌のようにあやしいぬめりを帯びた光を放つ。
大文字の歴史からはこぼれ落ちてしまうものたち。
その愛おしさと物悲しさを五七五七七にうたいあげたものこそ、笹公人の世界に他ならない。


ではまた。
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2008年03月18日

トリビアの小池 by・斉藤真伸

笹師範です。
少しは楽になるかと思ったら大間違いで、まだろくに寝る暇もない生活を送っております。
僕の場合、二十代の頃は眠りたい放題眠って怠けていたので、いい経験かもしれないと思ってがんばっています。

朱川湊人×笹公人
「遊星ハグルマ装置」
更新されました!
今回は僕の短歌「白魔術の女」です。

3月20日(金)

笹 公人 第三歌集 『抒情の奇妙な冒険』
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定価 1,365円
ISBN: 978-4-15-208907-6 刊行日: 2008/03/20

イラスト:とり・みき 
デザイン:岩郷重力+Y.S
帯文:山田太一 解説:栗木京子
発売:(株)早川書房


が全国書店にて発売されます!
ぜひ買ってください!

今回の真伸さんのエッセイは、
僕も尊敬している歌人・小池光さんについてです。
『念力図鑑』で跋文を書いてくださっているので、名前を知っている人も多いでしょう。

では、お楽しみください。

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「トリビアの小池」 by・斉藤真伸

たとえば皆さんが観光地に行ったときに歌を作るとしたら、どんな事柄を素材にしますか。

まあ、たいていの人はそこの土地の名物ですとか、名所を詠み込むと思います。ですが歌人の小池光さんに言わせると、それでは本当に面白い歌は作れないのだそうです。
その土地の名物や名所を歌に盛り込むだけでは、「絵ハガキ」みたいな歌しか作れません。特に古くからの名所旧跡だと、だいたい有名な歌人が何らかの歌を残していますから、それに勝つことは到底不可能です。
では、観光地で小池さんはどこに注目するのかというと、観光客が足を踏み入れないような裏道なんだそうです。そこには、観光地で暮らす人間(土産物屋やホテルの従業員など)たちの生活臭に満ちています。
そこにこそその土地の「リアル」があると小池さんは言います。

小池光さんは一九四七年に宮城県で生まれました。「短歌人」という結社の主要歌人の一人です。初期は


父の死後十年 夜のわが卓を歩みてよぎる黄金蟲あり

いちまいのガーゼのごとき風たちてつつまれやすし傷待つ胸は



といった繊細でロマン性の高い作風が特徴でした(共に歌集『バルサの翼』)。いまでもその基調は変わっていないとは思うんですが、その後はだんだんと人を食ったような作品が多くなっています。


佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず


たとえばこの一首。『日々の思い出』という歌集の中の一首です。小池さんは長いこと高校の物理の先生をされていましたから、「職業詠」と言えましょう。でも、この一首が発表されたとき、あまりにも「短歌らしさ」を裏切っているので、どう評価するかみんな困ったみたいです。

で、今回小池さんの歌から何を学んで欲しいかというと、自分が発見したことをどう歌にしていくかということです。


聴衆にねむる人かならず居りたればねむりの品(ひん)をわれ観相す


『滴滴集』(短歌研究社、二〇〇四年)という歌集の一首です。どこかに講師として呼ばれたときの歌でしょうか。上句はたしかに「発見」といえば「発見」なのですが、恐ろしいのが下句。「それ、堂々と居眠りしている人間の様子でも観察してやろうか」なんて余裕を持って構えています。こんな講師の前ではおちおち居眠りもできませんね。『滴滴集』から何首か引いてみましょう。


鳥偏(とりへん)にふしぎなる文字(もんじ)あまたありそのひとつ「鴆(ちん)」、鴆のこゑいかに


小池さんには漢字という文字の面白さをテーマにした歌が多くありますが、これはその一つです。内容としては「ただそれだけかい!」と突っ込みたくなるのですが、なぜか読者をもその「鴆」という鳥の不思議さに引き込んでしまう一首です。「鴆」という鳥の正体が知りたい人は漢和辞典を引くか、そのままググってみましょう。この歌に隠されたもう一つの仕掛けがわかります。


をさなき日八犬伝に出会ひたる軍手五倍二(ぬるでごばいじ)の名をば忘れず


これはまさに「軍手五倍二」という人名のインパクトを伝えるためだけの歌です。この人が「八犬伝」中でどんな役割を果たしているかはあんまり重要ではありません。たぶん作者自身もどんな人物かは忘れてます。これもおそろしく人を食った歌ですが、幼い日の郷愁ですとか、ノスタルジーがなんとなく伝わってくる変な作品です。

まえに穂村弘さんの「なるべく具体的で小さな違和感」という言葉を紹介しましたが、今回紹介した小池さんの歌は、「具体的ででっかい違和感」だらけです。でも裏を返せば、どんな素材でも歌にできるんだと、これらの歌は教えてくれているのです。

ではまた。
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2007年12月28日

「短歌とSF、そして変容」by・斉藤真伸

第五十回短歌研究新人賞の選評で、選考委員の一人である馬場あき子さんが、受賞作「六千万個の風鈴」(吉岡太朗作)について、次のように述べています。

「加藤治郎の『マイ・ロマンサー』が出たのが平成三年で、あそこで私が非常に好きだった『たぶんゆめのレプリカだから水滴のいっぱいついた刺草(いらくさ)を抱く』の世界を超えられたかというと、やはりここには…。あれは一首だけで、こちら(斉藤注・「六千万個の風鈴」)にはいくら物語があるけれども、ああいう屹立性がある歌がやはり少ない。」

で、ここに名前のあがった『マイ・ロマンサー』は、加藤治郎さんの第二歌集。平成三(一九九一)年に刊行されました。歌集名の「マイ・ロマンサー」は、ウイリアム・ギブスンのサイバーパンクSF『ニューロマンサー』からとられています。

サイバーパンクSFというと、「頭に変なメカを埋め込んだお兄
さん(もしくはお姉さん)が電脳空間であれこれするお話」みたいなイメージがありますが、実は「コンピュータネットワークをはじめとするテクノロジーによって社会や人間性、モラルなどがどう変容していくか」を描いたSFなんじゃないかと僕は理解しています。もちろん、いままでのSFでそれが描かれなかったわけじゃないんですが、旧世代のSF作家は従来のモラルに縛られて、それを十分に描けなかったんじゃないかというのが、ギブスンやブルース・スターリングといったサイバーパンク派の主張です。『マイ・ロマンサー』に収録された作品は、八七年から九十年にかけて詠まれたものですが、それはこのサイバーパンクというムーブメントが、SF小説というジャンルを超えて衝撃を与えていた時期と一致します。

サイバーパンクはその後沈静化し、SFは急速に長い冬の時代に
突入します。読者が激減し、作品としても、ホラーやミステリといった他ジャンルに方法論やアイデアを吸い取られ、勢いが衰えてしまうのです。ここ数年になってやっとSFというジャンルは息を吹き返したきらいはありますが、サイバーパンクのようなジャンルの根幹を揺るがすようなムーブメントは、いまのところ生まれてはいません。

『マイ・ロマンサー』の作品群を再読してみると、SF作品や
SF的イメージをモチーフとした作品は、さほど多くはありません。

・フランケンシュタインの来た道のはてあおいひまわり抱(かか)えて待つの

これくらいでしょうか。その代わり、テクノロジーやそれによる社会の変貌が、言葉やそれに対する感性をどう変えていくのか、という問いかけがこの歌集には溢れています。

・犬のしっぽをくわえるように眠ってらあ アクセルみたいに韻を踏んでよ

・オムレツのつぶれるような株価かなトゥラララトゥララきみの歌声

・ズボンからひっぱいだした緑色(りょくしょく)のスーパー・ボウル舐めれば酸っぱあい


これらの歌は、「言葉の意味を捉えて頭のなかで映像化する」というような「読み」の仕方ではまったく歯が立ちません。ですが、「意味を読み取る」ということを放棄して、「言葉と言葉の衝突」として味わってみるとどうでしょうか。加藤治郎は単なる「口語派」なのではなく、「短歌というジャンルにおいて、言葉の変容とその可能性を問い続ける者」であったのです。

「テクノロジーによる言葉と感性の変容を描く」という加藤短歌のテーマは、最新歌集『環状線のモンスター』(角川書店)においても一貫しています。一貫しているというよりも、愚直に追い続けているといった方がいいのかな。時にはその愚直さが「マンネリである」という批判を招くこともあるのですが。

・ケイタイの平たき中にあらわれるニッポン人の首は痛しも

『環状線のモンスター』より。これはもちろん、数年前にイラクで日本人の若者が無残にも殺害され、その一部始終が動画としてネットにでまわった事件に取材したものです。ですが、歌のテーマは殺害事件ではなく、携帯電話というちっぽけな(しかし社会的には重要な)機械が持つ「魔性」、そしてそれを所有し操る人間達の「魔性」なのではないかと僕なんかは捉えています。
それともう一つ読み落としてほしくないのは、「ケイタイの平たき中に」という携帯電話の画面の的確な描写です。加藤短歌の底を支えているのは、「モノに即して詠む」という短歌の伝統的な手法だというのは知っておくべきです。

前回取り上げた吉岡さんの作品には、「社会や人間性の変容」についての問い掛けはあまりみられません。馬場さんが選評で吉岡作品に物足りなさを感じているのは、その辺の欠如を読み取ったからかもしれません。ですけど、九十年代以降って、「テクノロジーが(良くも悪くも)人間性を変える」みたいな思想って、あんまり素直には信じられていないんじゃないかな。『マイ・ロマンサー』と「六千万個の風鈴」との間には、そういった「温度差」も現れていると思います。そしてSFというジャンルの勢いの違いも。

まあ、生涯をかけてひとつのテーマを追うということも大切だと思います。吉岡さんの場合、才気は十二分にありますので、そういったテーマを獲得できるかどうかが今後の勝負になるでしょう。と、今回はここまで。

引用歌が一部間違っているとの指摘が枡野浩一氏からありましたので、慎んで訂正させていただきます。失礼いたしました。
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2007年12月20日

「SFとノスタルジー」 by・斉藤真伸

むむむ…。

どうした? なんか気難しい顔して。

いやね、この前愛用の充電式シェーバーのバッテリがいかれたんで、換えのバッテリを買いに電機量販店にいったんだが…。

それで?

そしたら「これ、メーカーさんに出さないとバッテリ交換できないんですよ」って言われた! いくら量販店でも、部品があればこのくらいの交換できるはずなのに!

電機製品って、メーカーに修理に出すとやたら時間かかるよね。

最近の電機製品、昔よりもむしろメンテナンス性下がってないか? 高機能化しているのわかるけど、そのしわよせがユーザーに来るのっておかしくね?

おい、なんかガラにもなく真面目な話になってるぞ!?

SF的イメージというのはおかしいもので、ちょっと古いものはおそろしく陳腐でつまらなく感じてしまうことが多いんですが、時代が一回りも二回りも過ぎてしまいますと、むしろ奇妙な「懐かしさ」を放ち出すようです。
その端的な例が宮崎駿の「天空の城ラピュタ」でしょう。あの作品に出てくるメカニックは、明らかに十九世紀から二十世紀初頭に考えられた「未来のメカ」が下敷きになってますが、たまらなく魅力的です。
笹師範の作品の多くも、一九七〇代から八〇年代にかけての中高生向けSF小説(この当時は「ライトノベル」ではなく「ジュブナイル」と呼ばれていました)、特に学校が舞台になっている作品に対するノスタルジーがベースになってます。

飛んでくるチョークを白い薔薇に変え眠り続ける貴女はレイコ

明け方に時の裂け目を出入りする白い小人を見てはいけない

朝焼けの空き地に何かを埋めている発掘部員の背中小さく


『念力図鑑』より

この時代はジュブナイルSFを原作にしたアイドル映画も多く作られていたことも併せて考えますと、笹短歌についての「読み」もまた変わってくると思います。

さて、今年第五十回短歌研究新人賞を受賞したのは、「六千万個の風鈴」の吉岡太朗さんでした。作品は「短歌研究」誌九月号で読めます。
最近の短歌の新人賞は女性の活躍が目立つのですが、この人は昭和六十一年生まれの男性です。非リアリズム的作品には冷たい最近の歌壇の傾向のなかで、SF的イメージを作品の基調としていることも珍しく感じました。

南海にイルカのおよぐポスターをアンドロイドの警官が踏む

二十個の宇宙に等しい記憶機が打ち捨てられる僕らを容れて

銀色の夕立のなかねむりいるアンドロイドの腕の水滴


選評のなかで選考委員のひとり・穂村弘さんも指摘していましたが、作中に描かれているSF的イメージは決して新しくありません。むしろ古くさいです。「アンドロイド」なんて言葉も、最近のSF小説ではそのまんまじゃ使ってないんじゃないでしょうか。
でも作品からは奇妙な切迫感と奇妙なリアリティ、そして奇妙な「懐かしさ」を感じます。もし自分が作品に使っているSF的イメージの「古さ」に気付いていないだけだとしたらかなり危ういのですが、もしこの「懐かしさ」まで計算していたとしたら、侮れない作者です。

SFに対する短歌からのアプローチの仕方っていろいろあるとは思うんですが、そのなかには「懐かしさ」って要素もあるよってオハナシでした。次回もこの吉岡さんの作品を中心に語っていきたいと思います。

選評のなかで馬場あき子さんが、加藤治郎さんの『マイ・ロマンサー』(平成三年)と比べてどうよ?ってな話もしてるけど…。

『マイ・ロマンサー』は、サイバーパンクSFの元祖・ウイリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』を明らかに意識したタイトルだよね。次回はそれについても触れるよ。
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2007年11月23日

「アンソロジーのススメ」by・斉藤真伸

初心者の方からいただく質問で多いのは、「短歌を始めたんですが、まずどの人の歌集から読めばいいんですか?」というものです。これ、意外と難しい質問なんですよね。なぜかというと薦めた歌集がその人に合っていないものだと、「短歌なんかつまんない」「短歌は難しすぎて自分には無理です」なんていっていきなり止めちゃう可能性もあるからです。

そこで僕は、短歌のアンソロジーを読む事を薦めています。アンソロジーには現代や近代を代表する歌人の代表作が収録されていますので、自分の好みの作品を作る歌人を見つけるのにはピッタリです。自分が「面白い」と思う作品を作る歌人をみつけるのには最適です。そしてそういう歌人を見つけたら、その人の歌集を見つけて来て、片っ端から読んで行くのです。最初のうちは「アララギ派が…」とか「ニューウェーブが…」とかアレコレ考えなくていいです。でもなぜ自分がこの歌が「いい」と思うのか、「面白い」と思うのかは一首一首についてきちんと考えると、かなりの力になります。短歌のアンソロジーは大きな書店へ行けば必ず何冊か置いてありますから、どれを買うかはお小遣いと相談してください。

歌集は高くて手に入りにくいものだというイメージがありますが、邑書林の「セレクション歌人」や、砂子屋書房の「現代歌人文庫」のように、比較的安価で入手しやすいシリーズもちゃんとありますのでご安心を。

さて、ここからが今回の本題です。当ブログの読者のみなさん、歌作るの好きですか? え、「好きだから熱心にここを読んで歌を作ってる」ですって? それは大変失礼いたしました。でもあなたがこの先五年も十年も歌を作り続けたり、もっと現代短歌のことを知りたいと願うのならば、必ず読んでおくべき近代歌人が一人います。

それは斎藤茂吉です。

斎藤茂吉は高校の国語の教科書には必ず作品が載っているはずなので、みなさん名前はご存知だと思います。一八八二年山形県生まれ。大きな精神病院の院長を務める傍ら、近代短歌を代表する結社誌「アララギ」を発行し続けた人です。

茂吉は近代短歌の一つの頂点であり、そして多くの現代歌人の源流でもあります。なぜなら、現代歌人の多くが茂吉の歌を模範として歌を作って来たからです。だから茂吉を知ることは現代短歌を知るという事であります。

教科書に載っている茂吉の作品は処女歌集『赤光』(“しゃっこ
う”と読みます)中の連作「死にたまふ母」でしょう。

・死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞(きこ)ゆる

・母が目をしまし離(か)れ来て見守(まも)りたりあな悲しもよ蚕(かふこ)のねむり

・のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり


()内はすべてルビです。


茂吉の名を不動のものとした名作ですので、声調や言葉遣いなどはこれ以上のものはないほど完成されています。ですけどこの作品だけ取り出すとややとっつきにくい印象があるかもしれません。ですけど茂吉はこの一方で、「オッサン、なに考えてんだ」と言いたくなるようなヘンな作品も発表しています。

同じく『赤光』より

・ものみなの饐ゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉(せみ)のこゑ聞(きこ)ゆ

・けだものは食(たべ)もの恋て啼(な)き居たり何(なに)といふやさしさぞこれは

・馬に乗り陸軍将校きたるなり女難(じよなん)の相(そう)か然にあらじか

・数学(すうがく)のつもりになりて考へしに五目(ごもく)ならべに勝ちにけるかも



第二歌集『あらたま』より

・ひたぶるに河豚(ふぐ)はふくれて水(みづ)のうへありのままなる命(いのち)死(し)にゐる

・ふゆ原に絵(ゑ)をかく男(をとこ)ひとり来(き)て動(うご)くけむりをかきはじめたり



第六歌集『ともしび』より

・やけのこるいへに家族があひよりて納豆餅(なつとうもちひ)くひにけり

・かへりこし家にあかつきのちやぶ台(だい)に炎焔(ほのほ)の香(か)する沢庵(たくあん)を食(は)む



茂吉って本当に困った人で、誰でも読めるような漢字にまでルビを振るクセがあるんですよね。「このルビも茂吉の歌の味わいのひとつだ」って主張する人も多いので、引用の時はおろそかにできないし…。
それはさておき、これらの歌を読んで「なんかヘンだ」って思いませんでしたか。「茂吉イコール写実」なんてイメージのあったひとはなおさら驚くと思います。

実際に作品を読んでみると、本人は「写実、写実」とうるさく言ってたくせに、歌はほんとうに気ままに、自在に作っていたように感じます。茂吉の歌やその生涯を研究した本はそれこそ何十冊も出ていますので、「なんだかよくわからない」という歌があったら、それらの書物にあたってください。作品自体は、岩波文庫の『赤光』や『斎藤茂吉歌集』が手に入れやすいです。

まあ、いますぐにでなくて結構ですので、短歌をやるなら一度は茂吉の作品をまとめて読んでみてください、というのが今回の話です。今読んでその良さがわからなくても、茂吉の歌集を本棚に置いておけば、短歌を作る上で、けっして損にはなりませんよ、くらいに考えておいてください。


今回ヘンに真面目になっちゃってカワくんの出番なかったな。彼リストラしても支障ないかも。

キミの応援している某Jリーグチームは、J1からリストラされかかっているけどな。

ブチ(怒りのあまり言葉がでない)
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2007年08月08日

「短歌とセルフイメージ」 by・斉藤真伸

斉藤:いやーまいったまいった

カワ:君はいつも「まいったまいった」言ってるな。

斉藤:このまえ本屋で、集英社文庫版の太宰治『人間失格』を見かけたんだが、表紙を描いてたのが漫画家の小畑健氏だった…。

カワ:嫌いじゃないだろ。『デスノート』だって全巻持ってるんだし。

斉藤:でもさー、主人公とおぼしき青年の顔が、『デスノート』のライトみたいなんだよー。『人間失格』の主人公って、日本文学が生んだ究極のダメ人間のひとりだろ。ちょっとイメージが違うよ。

カワ:なら、誰が表紙を描けばイメージぴったりなんだ?

斉藤:集英社系の漫画家さんなら、『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦氏かな。

カワ:それ、もっとイメージ違うだろ!!

前回花山多佳子さんの作品について触れましたが、花山さんの作品から浮かんでくる作者像というのは、端的にいえば天然ボケでしょうか。
普通の人間なら気にすることを気にしない。そうかと思うと逆に、普通の人間が気にしないことを思いっきり気にしてしまう。読者が「えー」って驚いてしまうような自己像を作中で曝してしまっても気にしないあたりも「天然」キャラの強みでしょうか。

・まつしろいペンキのやうな鳥の糞に飛び立つときの勢いがあり

最新歌集『木香薔薇』(砂子屋書房)から引きました。技法としては「まつしろいペンキのやうな鳥の糞」という簡潔にして的確な描写にも注目してもらいたいんですが、面白いのはなんといっても下句です。意味としては「鳥が飛び立ったときに落としてしまったのかと思うほど勢いよく、地面に鳥の糞がとびちっていた」なんでしょう。でも、地面に鳥の糞が落ちていただけなのに、「飛び立つときの勢いがあり」なんて断定してしまうセンスがすごい。きっと作者は鳥の糞をじーっと眺めていたのでしょう。傍からみればそんなもん眺めているなんて「変な人」
なんですけど、作者は一向に気にしない。観察という行為が的確な描写だけではなく、想像を産むためにも必要だということがよくわかる一首です。またこんな歌もあります。

・スーパーの袋でサドルを包みたる自転車が空き地の木の下にいつも

七月二十五日付の記事で笹師範が、「どんなにくだらないことも大真面目に詠むこと」とおっしゃったことの意味がよくわかる歌です。「いつも」という末尾によって、日常のちょっと変な光景が、なにやら意味あり気な、もっと恐ろしいものに変貌するかのようにさえ感じられてきますね。
花山さんの作品は、面白いんだけど解釈に困るときが多々あります。
それはセンスが常人とは違ってるから。「頭がいい」とか「感覚が鋭い」とかそんな話ではなくて、「見ているもの」自体が違ってるんじゃないか、そんな気すらします。このセンスはちょっと真似できないんですが、歌の技法自体は円熟していて参考になりますので、機会があったらぜひ歌集を読んでください。


・「九十二歳山菜採りで行方不明」その年で欲かいて山に行くこと凄き

・ああアレか不様に生きて死んだよと風のついでの折に伝へよ

・神様がすべての運を持ち去つたやうなる生に耐へにたへたり


こりゃまた、とんでもなくネガティブな内容ですよね。これは小笠原和幸さんの『風は空念仏』(本阿弥書店)という歌集から引きました。
小笠原さんの作品は、短歌専門誌で正面から取り上げられることが少ないんですが、自分自身と世界とを呪って呪って呪いつくしたような作風が特徴で、意外とファンも多い歌人です。最新歌集の『穀潰シ』(砂子屋書房)には次のような一首があります。

・我子トハ我物ナレバ殺シテモ宜シ平成十八年夏

これ絶対マスメディアじゃ紹介できないよ…。こういった作品って自分を安全地帯に置いて作ったんじゃ、「悪い子ぶっている」だけなのでいやらしいことこの上ないんですが、小笠原短歌は自分自身を一番追いつめて詠んでいますから、凄みが違うんですよね。それにしても小笠原さんの作品って、なに書いても作者に「ケッ」って嘲笑されそうだから恐ろしい…。

短歌をつくるとき、ただ漠然と作るのではなく、自己像(セルフイメージ)を思い描いて作ると作りやすいんですよね。わかりやすく言えば自分のキャラを決めるというか…。キャラをつくるといっても、自分を美化しちゃいけませんよ。むしろ自分の欠点や弱点を中心においてキャラを作った方がいい。作者自身の美点なんてものは、ほっといても作品ににじみ出てくるもんです。むしろ自分の弱点をじーっと見つめて作ったキャラの方が、凄みがでてくるし、リアリティが違う。美点ばかり並べた完璧超人なキャラって案外つまんないもんですよ。

斉藤:とまあ、今回はここまで。

カワ:じゃあ君のセルフイメージってなんだ?

斉藤:見た目ならハリー・ポッターなんですが。

カワ:嘘つけこの野比のび太め!!
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2007年07月31日

「リアリティとは」by・斉藤真伸

斉藤:いやーまいったまいった。

カワ:どうしたの?

斉藤:このまえ修理に出したパソコンが、昨日ようやく帰ってきたんだよ。

カワ:ならいいじゃない。

斉藤:ところが、「これでようやく一安心」と思ってセットしようとしたら、一緒にあずけたはずの電源ケーブルが入ってなかった…。

カワ:あちゃー。

斉藤:修理をお願いした電気店に問い合わせたら、「すいません、うちの方で入れ忘れちゃいました」だって。まったくもー。一瞬シャア少佐に謀られたかと思ったぜ。

カワ:「なんで赤い彗星が、君ごときにそんなセコイことしなきゃならんのだ!?」

斉藤:じゃあヤン・ウェンリーの仕業だ。

カワ:いい歳こいてアニメばっかり観てるんじゃない!

前回のお題は「都市伝説」でしたが、あの種の話の「リアリティ」ってどこからくるんでしょうか? それはやはり、大勢の人間によって磨かれるからだと思います。大勢の人間が語り継ぐことによって話が磨かれ、ディティールが付け加えられるのです。こうして磨かれた「都市伝説」は、ひとりの人間が考えただけではとうてい得られないリアリティを獲得することになります。

この都市伝説が持つリアリティを再現するために、多くの投稿者の方は「その都市伝説の世界の住人になりきる」という方法をとりました。
これは正解です。都市伝説のような「現実と虚構の境」にあるテーマの場合、その世界にいるキャラクターの内面にまで踏み込むような迫真性が欲しいですし、それを生むためには「なりきる」というのは有効な手段です。
ですが、あくまで視点を現実世界において、「都市伝説を信じている人々を観察して歌う」というアプローチも実は存在するのです。

・通学路なる歩道橋は夕べ怪(け)しきもの現わるるとぞ誰ものぼらず

花山多佳子さんという歌人の『草舟』(平成六年刊)という歌集から引きました。
最近でた『続花山多佳子歌集』(現代短歌文庫)という本
に載っています。おそらくは小学生の息子さんから聞いた話を歌にしたのでしょう。作者は息子さんから聞いた話が現実にあったことだとは信じてません。あくまで「学校の怪談」のようなお話だと思っています。
それなのに、この一首にはそこはかとない怪しさが漂っているのはなぜなんでしょう。

僕自身としては「誰ものぼらず」という簡潔な結句が、この一首の怪しいリアリティを生んでいると考えています。子供の世界でははこの「怪(け)しきもの」が信じられているという「事実」を、この「誰ものぼらず」は表しているからです。

また、この歌はきちんと五七五七七にはなっていません。初句は七音だし、二句は九音です。このようにわざと五七五七七の音数を崩しているものを「破調」と呼びます。この歌の場合、その「破調」が、読者をうねうねとした怪しい世界へ誘い込むかのような効果をあげているのです。作者自信はその話を信じていないはずなのに、歌のムードは怪しいだなんて、じつにヘンな感じでしょ? この「じつにヘンな感じ」こそが花山短歌の面白さなのです。ちなみに、この歌と同じ章には次のような作品もあります。

・かつて厠は家の外にありしと語りつつ頭(ず)は行き来するそのくらやみを

次回では、花山短歌の「じつにヘンな感じ」を語りつつ、「作者のキャラクターとその作品」という問題に触れていこうと思います。

斉藤:花山さんには何回かお会いしたけど、いい意味で変な人だったなー。歌人には「変な人」って多いけど、あからさまに「変」って感じじゃないんだ。「計算はどこも間違っていないのに、なぜかものすごく歪んでいる設計図」って言えばわかってもらえるかな?

カワ:君は思いっきり耐震偽造だけどな。

斉藤:やかましいわい。
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