2009年02月07日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

斉藤真伸です。


「この森の中心で愛をさけんだ馬鹿者」

前回、笹井宏之さんの歌集『ひとさらい』は、実に危ういバランスの上に成り立っている歌集だと申しました。それもそのはずで、空高く羽ばたいているはずのものが、ごく僅かでも「常識」という地面に足をつけてしまったら、それはたちまち転落するしかないからです。

・音を食らう仙人たちのあいだでは意外と評価の高いエミネム

 これも『ひとさらい』の中の一首ですが、この歌集のなかでは凡作でしょう。僕は洋楽にはまったく疎い人間ですが(たぶん知識がサイモン&ガーファンクルで終わってる)、エミネムという白人ラッパーが高い評価を受けていることぐらいは知っています。ですから、「意外と評価の高いエミネム」というフレーズにまったく意外性を感じません。これが同じ洋楽アーチストでも○○○○(お好きなアーチストの名前を入れてください)みたいに、知名度はあっても音楽的評価はさっぱり、みたいな人だったらまだ面白みを感じるんですが。「音を食らう仙人」も、音楽ファンや音楽関係者を容易に連想さ過ぎです。
 一口で言えばこの一首は「常識」や「世評」と安直に「ついてしまっている」のです。ですから言葉だけが異様に目立っています。


 では、「世間の常識」とかけ離れていて、その上言葉だけが変に目立つことのない歌とはなにか。例えば僕は次の一首をあげます。

・この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい

 笹井さんの歌で後世に長く残るものがあるとすれば、たぶんこの一首が筆頭なのではないでしょうか。言葉の奔放さ(穂村弘さんいうところの「わがままさ」)、味わい、意外性のすべてを含んでいます。上句、「軍手」がすばらしい。これが「手袋」だったらメルヘンチックすぎて、その時点でアウトです。「まちがえて」という言葉の展開のさせ方がうまいし、下句の「図書館」にも意外性がある。
 上句からはやや厭世的なものを感じます。「森」というのは、一般の人間社会からは一歩引いた場所の暗示でしょう。それが下句では、「図書館」という、公共の、しかも多くの人間が訪れる場所を「建てたい」という心情が吐露されるのです。僕はここに、「世界と自分との関係性」を再生させたいという作者の切実さを感じるのです。つまり、「孤独のままはやっぱり嫌だ!!」という叫びです。「まちがえて」という一語に、作者はいったいどれだけの想いを凝縮させているのでしょうか。


・人類がティッシュの箱をおりたたむ そこには愛がありましたとさ

 『ひとさらい』という歌集はこの一首で終わっています。これは僕の勝手な想像ですが、以前紹介した中澤系さんの「牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に」が作者の脳裏にあったのではないでしょうか。『ひとさらい』にはこの他に「三番線漁船がまいりますというアナウンスをかわきりに潮騒」という、明らかに「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」の本歌どりがありますが、これはあんまり成功していないと思う(笹井さんが中澤さんの歌を意識していた証左にはなると思います)。
 笹井さんの作品と中澤さんの作品は、見事な対照を成しています。
簡潔にいえば、笹井さんの作品は「生」であり、中澤さんの作品は「死」です。中澤作品の「牛乳のパックの口を開けた」は、世界との「断絶」を示しているように思えます。
 それに対し笹井作品の「ティッシュの箱をおりたたむ」という行為は、なにを意味しているのでしょうか。この「ティッシュの箱」は、おそらくもう空になっているのでしょう。しかしそれをただ捨てるのではなく、ていねいに「おりたた」んでいる。捨てるまえに「おりたたむ」ということは、その手間の分だけ「ティッシュの箱」に関わっているということです。そしてそのごく僅かな関わりを作者は「愛」と呼んだ…。
 笹井さんのこの一首を読んだと、おもい浮かべたのは山崎方代の次の一首でした。

・茶碗の底に梅干しの種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ

 方代もまた、戦傷によって半失明状態になり、世間とは疎外されたところで生きなければならなくなった人です。ずいぶんと変わったところに「愛」を見いだした、という点では二人の歌は共通しています。しかし、切実さ、孤独さの部分では笹井作品の方がやや勝っているのではないか。なぜなら、方代作品は「愛」というものの存在自体は確信しているからです。それに対し笹井作品は、「愛」というものの存在にあまり確信が持てていません(「ありましたとさ」というとぼけた口調に注意!!)。しかしそれでも「愛」を求めずにはいられないところに笹井作品の切実さがあるのです。

 さて、彼の歌はいったいどこへ向かおうとしていたのでしょうか。僕が思うに、「言葉と想像力による現実の解体と再生」が、笹井さんの歌の目的だったと思います。それは想像力によって現実を書き換えることでもあります。
 「現実」は「病」という手段で、笹井さんの心身を蝕みました。しかし、その想像力だけは、死の瞬間まで奪うことはできなかったのです。最後に、『ひとさらい』の中で僕がもっとも好きな一首をあげて、笹井さんへの弔いとしたいと思います。

・ここは銀河系のわらじ さむがりや馬鹿者どもがすあしをつっこむ
posted by www.sasatanka.com at 04:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月05日

お知らせと「秀歌鑑賞」

笹師範です。

イベントのお知らせが二つあります。

まずはこちら。

「タケシ学院 第4回スペシャル講義」

で講師を務めます!

イベント概要

「少年タケシ」の連載作家が直接指導する、ワークショップ「タケシ学院」の第四回講義!
今回はおなじみのコミック作家によるアニメ・マンガ講座はもちろん、コラム作家による講座も新登場!
「少年タケシ」がそのまま抜け出たような楽しいワークショップです!

コミック講師:白佐木和馬(「ミカンせいじんグリル」)
ピョコタン(「西日暮里ブルース」)
おおたまこと(「3年Bクラス!キャンパチ先生」)
サトウケンジロウ(「onaraどうぶつえん」)
シャチ(「ミュータンとあそぼ!」)
サヲリブラウン(「ごきげん?ミカコさん」)

講師:笹公人(歌人・「家政婦は見タンカ」)、阿部知代(フジテレビアナウンサー)

講師:毛利嘉孝(東京藝術大学助教授・社会学者・「はじめてのDiY」)、ほかゲストあり

[会場]秋葉原UDXギャラリー

[日時]2009年2月14日(土)
?10:30-12:00 ?13:00-14:30 ?15:30-17:00


[対象]小学校1年〜6年生

[参加費]2,000円(税込)

[主催]CANVAS、フジテレビ「少年タケシ」


<参加申し込み>
「CANVAS」のホームページよりお申し込みください。

お子様がいらっしゃる方、ぜひご参加ください!
知代さんは着物でいらっしゃるそうです。


そして、もう一つ。

「笹井宏之さんを偲ぶ会」
が開催されることになりました。
僕も座談会で出演いたします。
皆さまのご参加をお待ちしています。


◇日時 2009年3月20日(金曜・春分の日)14:30〜17:00 (受付開始 14:00)

◇会場 日本出版クラブ会館
東京都新宿区袋町6 TEL 03-3267-6111

◇内容

【追悼座談会】 斉藤斎藤、笹公人、佐藤弓生、加藤治郎(司会)

【短歌朗読】 野口あや子、伊津野重美

*偲ぶ会終了後17:30より「鮒忠」にて笹井宏之さんを語り合う懇親会を開催いたします。(新宿区神楽坂5−34−1)


◇参加費

偲ぶ会 3,000円

懇親会 4,000円


◇参加申込先(お問い合わせ先)

こちらのページからお申し込みください。


◇受付締切 3月10日(火)


◇申込み記載内容

(1)申込みパート
 *下記から1つお選びください。会費は当日いただきます。

A. 偲ぶ会及び懇親会
B. 偲ぶ会のみ        
C. 懇親会のみ      

(2)お名前 所属グループ名

*メールのタイトルは「偲ぶ会参加(お名前)」の形でお書きください。


◇なお、当日は平服にてご出席くださいますようご案内申し上げます。

◇笹井さんの歌集を購入ご希望の方は、BookParkまでお願いいたします。
 
斉藤真伸さんの原稿が届きました。
今回はその笹井くんの歌を鑑賞してくれました。
では、ご覧ください。

_________________________

斉藤真伸です。

「棒とポトフ」

今回取り上げる歌集は、笹井宏之歌集『ひとさらい』(ブックパーク)です。たいへん残念なことに、これが著者の生前に刊行された唯一の歌集となってしまいました。
 笹井さんについては、笹師範から詳しい紹介がありましたから、あまりくだくだしいことは申しません。ただ、ひとつつけ加えるとすれば、笹井さんは長期にわたって病気療養中であったということです。

 「療養短歌」や、「療養所歌人」という言葉があります。結核などの病気で長いこと苦しんでいる人たちが、その病気を主題に歌を詠むことを指します(三省堂『現代短歌大事典』によれば、この言葉が定着したのは第二次大戦後だそうですが)。特に結核患者やハンセン病患者のなかから、多くの優れた歌人が輩出されました。
 己に何の罪もないのに、苦しみを背負い、世間からも一線を画して生きていかなければならないのです。その無念たるやすさまじいものがあります。特にハンセン病患者は、差別的、非人道的な隔離政策にもてあそばれてきました。

 僕の知る限り、笹井さんの作品には、自分の療養生活をストレートに詠んだ歌はほとんど存在しません。しかし、「社会からの疎外感」という点では、先に述べた「療養短歌」の作り手たちと共通するものがあったはずなのです。笹井さんの作風は、一口で言ってしまえば、空想的、非自然主義的リアリティの上になりたっています。これを「現実逃避」といってしまうのは容易いことですが、僕はそうではないと考えます。むしろ笹井短歌の本質は、非現実的世界の彼方に、自分自身の生命力、そして世界への「愛」を再生させようという試みだったのではないか。


・わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒

 歌集の冒頭近くに置かれた歌です。「棒になった男」という安部公房の作品があります。平凡に生きていたある男が、その平凡さゆえに徹底的に否定され、侮辱され、嘲笑されるという、実に嫌な話です。このように「棒」というものは、「つまらないもの」「凡庸なもの」「くだらないもの」の象徴としてよく扱われます。
 実はこの歌ですが、底に流れる精神は、近代短歌の伝統的なものを受け継いでいます。すなわち、「自己の卑小さ・矮小さをじっと見つめる」ということです。石川啄木なんて、そればっかやってますよね。この作品も、「わたがし」を「わたくし」と読み替えてみれば、そのテーマははっきりとすると思います。
 また、小道具としての「わたがし」もなかなか面白い。とけてしまったのは、さてどの部分なんだろうと、つい想像力をかきたてられます。三句から四句にかけての「知る由も/なく」という句またがりにも無理がありません。


・それは明日旅立ってゆく人のゆめ こうのとりには熱いポトフを

 「こうのとり」はもちろん「誕生」の暗喩です。「明日旅立ってゆく」を、「誕生」と捉えるか「死」と捉えるかは人それぞれですが、「作者の死」という事件のあとだと、どうしても後者だと考えてしまいます。またその方が、「死」と「誕生」という対比がすっきりと成り立ちますしね。この歌のうまいところは「熱いポトフ」なんて持ち出してきたことです。これによって「こうのとり」のキャラクターが平板なものではなく、ある厚みをもったものに感じられてきます。


・しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう

 ちょっとホラーチックな、不気味な歌です。ぜんぶひらがな表記名ところが、かえってその不気味さを引き立てています。僕はこの歌から、「どこへいこうと自分は人間であることから逃れられない」という作者のうめき声を感じました。つまり、「逃げ場所」などこの世のどこにもないのです。どこかへなんとか逃げ込んでみても、そこは「しっとりとつめたいまくら」のような、より閉鎖された場所でしかないのかもしれない。

 笹井さんが亡くなってから、多くの人が追悼の意を込めて、その作品をブログなどで紹介しています。それらを読んで「こんな独り言みたいな歌、おれにでも作れる」と思った人は多いかもしれません。しかし、そう思うのは勝手ですが、実際にはこういう「独り言調」、「非自然主義的リアリティ」の歌を作り続けることは、多大なエネルギーを必要とします。

 どんなにがんばって奔放なイメージ、斬新な言葉遣いを編み出したとしても、読者はだんだんとそれに慣れてきます。しまいには「この人だったらもっとぶっとんだ作品ができるはず」なんて言われたりもします。また、こういう「独り言調」は、世間の常識と「ついて」しまったり、他人の想像力に負けたりすると、たちまち陳腐なものになってしまいます。

・大陸間弾道弾にはるかぜのはるの部分が当たっています

 これも『ひとさらい』の中の一首ですが、失敗作だと思います。「大陸間弾道弾(戦争)」と「はるかぜ(平和)」という対比が、露骨すぎてすごくわざとらしい。作者が自分の発想に酔ってしまったらそこでアウトなのです。「写実的」「自然主義的」な歌を作るのよりも、ある意味ずっと厳しいのです。僕自身も「独り言調」の歌をよく作ってた時期があるんですが、歌の「善し悪し」が、自分自身ではすごく判断しにくかったことを憶えています。

 『ひとさらい』という歌集が、このように実にあぶないバランスの上に成り立っている一冊だということは、ぜひとも留意しておくべきでしょう。「センス」だけで歌を作り続けられる期間は、そう長くはありません。永遠に続くかに思えた言葉の本流も、ぴたっとやんでしまう時期があります。そんな壁にぶつかったとき、この作者はどうするのだろうか。『ひとさらい』という歌集を最初に読んだとき、そのような危惧を強く感じました。

 その答えがでることはもう永遠にありません。だが、笹井さんの作品がこれからどこを目指そうとしていたのか、その答えもまた、『ひとさらい』のなかに隠されているのです。

次回も、笹井さんの残した作品について語りたいと思います。
posted by www.sasatanka.com at 00:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月28日

秀歌鑑賞

笹師範です。

笹井くんショックはまだ続いていますが、
彼の短歌と作歌活動を称えて、
「特別殿堂入り投稿者コーナー」を設置することを決めました。

J-WAVE「M+」「笹公人の短歌Blog」時代(ささね名義)からの投稿作品をまとめて掲載しようと思います。
「M+」が終了したら、あのページも閉鎖されてしまうと思うので、いまのうちに管理しておかなければと考えました。
コメント欄はすでに削除されてしまったので、
採らなかった歌を見つけられなかったのはとても残念です。
資料としてもお役に立てれば幸いです。

本当は真っ先に笹井くんのコーナーをつくりたかったのですが、
彼には歌壇で活躍してほしかったので、
あえて心を鬼にしてコーナーをつくりませんでした。
笹井くん的にはコーナーを持ちたいと思ってがんばってくれていた部分もあったのですが、
当時から結社「未来」に入会しそうな気配があったので、
入会したあとは結社にエネルギーを集中してもらうのが彼にとって一番良いと考え、そのようにしたのでした。

当時は、3回「最優秀作品」に選ばれると、コーナーが持てるという約束だったので、2回目以降はわざと「優秀作品」以下に選んでいました。
本当は「最優秀作品」だった歌が何首もあるのですが……。
彼が「未来賞」を受賞した時に、お祝いの言葉とともにそのことを伝えました。
彼はとても感謝してくれました。

彼の驚異的な多作ぶりを考えると、そんなことを気にする必要はなかったのかもしれない……とも思いますが、
それもいまとなってはの話です。

素晴らしい短歌でわれわれを楽しませ、驚かせてくれた笹井くんに「特別殿堂入り投稿者コーナー」をもって御礼したいと思います。
「新・あきえもんアワー」の上に設置します。
彼に会いたくなったらいつでもコーナーに遊びに来てください。


斉藤真伸さんの秀歌鑑賞が届きました。
今回は中澤系さんの歌です。

中澤さんは「未来」の先輩で、お世話になっていました。
とても辛口な人でしたが、僕の歌にはなぜか好意的で、
いろいろフォローして頂いたことが忘れられません。
中澤さんもまた伝説の歌人となるでしょう。

では、お楽しみください。

________________________

斉藤真伸です。


「3番線のザジ」


・3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

この一首を一言で言ってしまえば、言葉によるだまし絵です。日本人ならば「3番線快速電車が通過します」という言葉を理解できない人はほとんどいないでしょう。しかし「理解できない人は下がって」とはいったいなんのことか。「3番線快速電車が通過します」の言葉の意味が理解できないならば、「理解できない人は下がって」も“理解”できないのではないか。そもそも、「理解できる人」はどこへ行けばいいのか。
 こういう始めから“理解”を拒否したような歌の、ひとつひとつの言葉の意味を考えたってしょうがありません。しかし、つい考えてしまう。考えはぐるぐるまわって、まるでアリ地獄のように…。

この歌の作者は中澤系さん。1970年、生まれで「未来」短歌会に所属しています。しかし、現在作品はまったく作っていません。短歌をやめたのではなく、病に冒されたからです。病名は副腎白質ジストロフィー。進行性の難病です。

 中澤さんのこの病気が発症したのが2001年ごろ。そして「未来」2002年七月号の作品を最後に、中澤さんは「未来」から姿を消してしまいます。2003年に、同じ「未来」のさいかち真さんが中心となって、『uta 0001.txt』(雁書館)という歌集が編まれました。中澤さんの師である岡井隆さんは、歌集の「解説」のなかで、「そのあと(斉藤注・2000年ごろ)、中澤さんの歌は、急に崩れはじめた。送られて来た歌稿の字も、乱れ勝ちになつた。内容も、とりとめのない独り言めいて来た。まつたく何を書かれてゐるのかわからないやうな、メモめいた歌もあり、定型が守られなくなつた。わたしは、この人の才能をふかく信頼してゐたので、この突然の変貌におどろくとともに、惜しいと思つた。その原因をきいて知つたのは、大分あとのことだつた。」と書き記しています。中澤さんという人間が「壊れていく」過程が簡潔に述べられており、かなり怖い文章です。

 中澤さんの歌のテーマは、おおざっぱに言えば、現代の社会システム、いや、人間存在そのものへの深刻な懐疑です。われわれが強固に信じている社会やルールなんてものは、実はあっけなく霧散してしまうものではないか。


・tariff ああ昨日の夜はなにごともなかったよ交番に白墨

・ぼくの死でない死はある日指先に染み入るおろし生姜のにおい

・あいさずに生きてもぼくのまわりにはフレンチフライの香りが残る



 社会システム(それは当然言語も含みます)への懐疑というのは、現代思想の重要なテーマですが、中澤短歌の面白さはそれを「言葉のだまし絵」で見せてしまうところにあります。つまり、現代思想家たちが何冊もの書物で語るものを、わずか三十一音で語ってしまおうという凄みです。岡井さんも前出の「解説」の中で、「短歌といふ詩のよさは、さういふ抽象的思考と、キャンディーや扇風機や唾液といつた物とからませて表現できるところにあらう。」と述べています。いいかえれば、抽象的思考が「詩」の形をとるには、何らかの媒介物が必要なのです。その媒介物さえみつかれば、短歌という三十一音の詩型に、表現できない思想などなくなってしまうのです。


・駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに

・牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に



 『uta 0001.txt』の中から、僕の特に好きな歌を二首あげました。特に「牛乳のパック」からは、現世から解き放たれるようなすがすがしさを感じるときがあります(つまりは死の匂いですが)。

『uta 0001.txt』は、版元が廃業してしまったせいもあって、現在入手困難です。ですが手に入れる機会があったら、絶対に逃すべきではありません。この歌集には永遠に完成されるも完結することのない「何か」があります。この本の最後の一首が次のような歌なのは、決して偶然ではないでしょう。

・ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ
posted by www.sasatanka.com at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月21日

おしらせ&秀歌鑑賞

笹師範です。
まずはお知らせから。

1月24日(土) 午後1時〜4時

「平成20年度 NHK全国短歌大会」

日 時   平成21年1月24日(土)午後1時〜4時
会 場   NHKホール(東京・渋谷)
主 催   NHK・NHK学園
後 援   文化庁・現代歌人協会・日本歌人クラブ
協 力   NHKエデュケーショナル・NHK出版


が開催されます!

観客席から見るだけでもおもしろいので、お時間ある方は見にくることをお勧めいたします。
うちの師匠の岡井先生とかああいう舞台に上がると凄いオーラを発するので、それも見物ですよ。
ジュニアの部の選者を務めた関係で、僕もちょこっと御挨拶するかもしれません。

楽しみですね!

この大会はお歴々が勢ぞろいする楽屋が緊張するんだよなぁ。

師範が?

うん。隅っこで小さくなってるよ。
たまに岡井ちゃんと世間話するくらいで。

岡井ちゃんて……コラ!! 
全然小さくなってねえよ!

冗談はさておき、北島三郎や和田アキ子がいる場所によくわからない新人歌手がいるような状況ですよ。実際。

わかりやすいたとえ。

去年はコワモテの石田比呂志さんに肩を揉んでいただいて、逆に肩が凝ってしまいました……。

それは怖い!
今年もがんばってください。


発売中の絵本専門誌『MOE』2月号(白泉社)
の2008年の絵本ベスト30番外編に
『ヘンなあさ』が選ばれました。
デビュー作にしては大健闘とのこと(本さんのおかげですが)。
この機会に、まだ読んでいないという方はぜひ読んでみてください!

ということで、斉藤真伸さんの「秀歌鑑賞」です!

よろしく哀愁☆

_________________________


「日曜の小事件」

斉藤真伸です。

今回、『佐藤佐太郎歌集』を再読して思ったことは、「佐太郎ってスゲー神経質な人だなぁ」ということです。もしかするとこの「神経質さ」が短歌の形に昇華されるときに、あの独特の抒情が生まれるのかもしれませんが。

 佐太郎の師匠である斎藤茂吉も、それなりに神経質だったり気難しかったりしましたが、その一方で驚くほど子供っぽい一面がありました。例えば、弟子と一緒に鰻を食べるときは、「おい、キミの鰻の方が大きいから取り換えてくれ」と平気で言ったそうです。普通、仮にも“大家”と呼ばれる人間は恥ずかしくてそんなことは言えませんよ。それなのに茂吉は言ってしまう。弟子たちは慣れたもので、そういうときは「ハイハイ」といってすぐ応じたそうですが。

 茂吉の弟子である佐太郎にはそういう形の子供っぽさはありません。その代わり師匠に勝るくらいの感覚の冴えがありました。

・日曜の何するとなき部屋にゐて炭(すみ)はねし時ひどく驚く

 処女歌集『歩道』より。昭和十(一九三五)年の作品です。いまもむかしも、一人暮らしの人間の日曜日というものは侘びしいものです。そして「孤独」は、人間の感覚を驚くほど明敏にするときがあります。「炭」はもちろん暖房に使うものですから、季節は当然冬です。寒さも人間の感覚を研ぎ澄まします。「炭(すみ)はねし時」というのは、佐太郎の言葉を借りれば「日常の瑣事」ですが、そんな瑣事が時には人の心にショックを与えることがあります。佐太郎の作品、特に初期のものを読むと、自分たちがいかに「日常の瑣事」を見過ごしているかに気づかされます。

 人間の心って絶えず動いているんですよ。そして心が動く瞬間こそ短歌のいい題材なのに、大抵の人間はたちまちにそれを忘れ去ってしまいます。言い換えれば「日常の瑣事」は短歌のいい題材だということです。


・つとめ終へ帰りし部屋に火をいれてほこりの焼くるにほひ寂しも

 もう一つ暖房ネタ(?)を。第二歌集『軽風』から。ただしこちらは昭和四(一九二九)年と、前の作品より古いです。これも「ほこりの焼くるにほひ」というごく微細な感覚を中心に据えています。「寂しも」は、ただ単純に「寂しい」と取るのではなく、「人間存在の根本的な物悲しさ」を示していると読むべきでしょう。


・舗道にはいたく亀裂(きれつ)があるかなと寒(かん)あけごろのゆふべ帰路(かへりぢ)

 これは『歩道』から。昭和十四(一九三九)年の作品です。「寒(かん)あけ」とは、寒が終わって立春になるころを指します。暦の上では春は始まりますが、まだまだ寒い。たぶん佐太郎はややうつむいて帰路についたのでしょう。必然的に路上に目がいくことになりますが、なぜか道路の亀裂ばかり気になってしまいます。それがわびしい心をますます追いつめていきます。

 やたら身の回りの細かいことが気になるときって、実はあんまり幸せなときではないでしょう。うまくいってるときは、細かいことはあんまり気にならないものです。でも短歌(というよりも創作全般)には、「負の感情」を鎮める作用があります。特に声にもならないほど小さい心の中のさけびを掬い取ってくれるのが、短歌という形式なのでしょう。

そういうわけで今回はここまで。
posted by www.sasatanka.com at 04:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月13日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

笹師範です。

1月7日(水)深夜25:29〜

「ウキ→ビジュ」(中京テレビ)
ゲスト・笹公人(第4回目)

よかったら見てください!
前回「アイドル短歌」のコーナーはカットされていましたが、
今回はどうなるかな?

ということで、斉藤さんの「秀歌鑑賞」です。
よろしく哀愁☆

__________________

斉藤真伸です。


妖怪「天井下がり」

あけましておめでとうございます。今年もよろしく。

今回取り上げます歌人は佐藤佐太郎。斎藤茂吉直系の写実派歌人として知られた人で、現代短歌の巨人と言ってもいいでしょう。

 実を言いますと、僕はこれまで佐太郎の作品はあんまりちゃんと読んでなかったんです。茂吉や土屋文明、長塚節といった他のアララギ派の歌人は一応読んでるんですけど…。なんか佐太郎って生真面目で、とっつきにくい印象があったんです。
 ですがこの年末年始に岩波文庫の『佐藤佐太郎歌集』をじっくり読んだら、また印象が変わりました。生真面目は生真面目だし、よく指摘されるように「客観」に徹した作品なんですけど、どことなくユーモアを感じるんです。この機会に、佐太郎の歌のいくつかについて思いのままに書いてみようかと思います。

・夜の床に心をどらしてものごとを虚構する我は年経てやまず

 佐太郎は明治四十二(一九〇九)年に宮城県で生まれ、昭和六十二(一九八七)年に没しています。もともと文学好きで詩などを書いていましたが、あるとき茂吉の歌に出会い、短歌を作り始めます。そして十八歳のときに茂吉に入門。
 掲出歌ですが、これは昭和六年、佐太郎二十二歳のときの作品です。第二歌集『軽風』に収録されています。いまの二十二歳ぐらいの人間と単純に比較はできませんが、随分大人びたというか老成した感じがしますね。でもそこまで自己を客観視できる人間にも空想癖があり、しかもそれをどことなく羞ずかしがっているあたりに愛敬を感じます。
 歌としてのポイントは第四句「虚構する我は」でしょうか。「癖」や「こと」ではなく「我」としたところが面白い。「癖」や「こと」だと、「それはあくまで自分のなかの一部分ですよー」という“逃げ”をどうしても感じてしまいます。しかし「我」だと、なんか作者の全身というか、全存在が空想をもて遊んでいるように感じられます。
 また、「夢想する」や「空想する」ではなく、「虚構する」というやや不自然で大仰な物言いが面白い。さっき述べたこととやや矛盾しますが、作者は自分の空想癖に対して抱いている「羞ずかしさ」を、このヘンな物言いで誤魔化そうとしているようにも思えます。早い話が照れ隠しですね。第二句と第四句はそれぞれ八音で破調です。前者はなんだかふわっと柔らかい感じがします。それに対して後者は、なんだか固い。同じ八音の破調でも、その効果がまったく違うのが面白い。

 佐太郎の歌というと、冷徹なまでに「客観」に徹した描写がよく指摘されますが、そのベースにあるのは、この「夜の床に〜」の歌が示しているような想像力なんじゃないかな、という気がします。

・石の上にわれは居りつつ山川に蝌蚪(おたまじやくし)の流るるを見つ

・流し端(ば)にものの匂のどぶくさき朝(あした)は屋根の雪とくる音

・表通の石みちを壊(こわ)す物音は昼すぎてより間近に聞こゆ
 

同じ『軽風』から三首引きました。いずれも乾いたタッチの「客観写生」の歌です。しかし逆にいえば、物事をここまで凝視することは、「想像力」が乏しい人間には不可能なことなのではないでしょうか。「想像力」が豊かな人間だからこそ、物事をここまでじーっと見つめて飽きることがないのです。

 「写生」や「写実」って、実は作者や読者の「想像力」と密接にからみあう技法なのではないか、最近そんな気がします。

次回も佐太郎の歌を取り上げます。
posted by www.sasatanka.com at 02:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

エッセイ by・斉藤真伸

「妻に黙って蟹食って怒られました」

斉藤真伸です。

この前角川書店の『合本 俳句歳時記 第三版』をパラパラめくってたら、「冬」の季語として「闇汁」という言葉が載っているのを見つけてしまいました。
 これはいわゆる「闇鍋」のことで、「灯を消した室内で、持ち寄ってきた食べ物を鍋の中に手当たり次第に放り込んで煮て食べる。」ことです。こんな季語があるなんて気づきませんでした。
 例句として載っている作品がなかなか面白いです。

・闇汁のわが入れしものわが掬(すく)い

草野駝王

 これは「あるあるネタ」でしょうか。

・闇汁の闇のつづきに渡し舟

澁谷 道

 なかなか幻想的ですね。

・闇汁の闇に正座の師ありけり

佐藤貴白草

 「写実」の歌なんですが、上の歌に通じるような幻想味があります。「正座」の一語が、師の性格や風貌をそこはかとなく匂わせていて、うまい。

 しかし、こんなとんでもない作品もあります。

・闇汁に河豚を入れたること言はず

小田実希次

 もちろん、しかるべき人間が捌いたものなんでしょうが…。確かに言ってしまったら殴り合いじゃすまなさそうです。

 「歳時記」はもちろん俳句の季語を集めた本なんですが、短歌の創作や作品鑑賞にもかなり役立ちます。膨大な数の言葉が載ってますから、読むたびに、自分がそれまで知らなかった言葉や事象に出会えることが多いからです。歌人にも「歌がつくれなくなると歳時記を読む」という人は大勢います。同じ定型詩でも異質なモノとぶつかることによって、自分の心や言葉の感覚を刺激するんだそうです。
 僕自身、「歳時記」を読むことで生まれた作品は何首もあります。これは春の季語ですが、「冴返(さえかへ)る」(いったん緩んだ寒さが、またぶり返すこと)という言葉に出会った時は、次のような一首ができました。

・冴返るけさのわが家に厚紙かなにかを破る音がしている (斉藤真伸)


俳句は短歌と比べると、安易に新語を取り入れないと一般に言われています。確かに「歳時記」を読むと、「いまどきこれはないだろう」という語も多いんですが、見方を変えれば、かつての社会や生活を知る役には十分たちます。
 そしてなにより、「歳時記」自体が俳句の巨大なアンソロジーです。読み物として十二分に面白い。
 みなさんも機会がありましたら、「歳時記」を一回手に取ってみてください。

それではまた。
posted by www.sasatanka.com at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月10日

「鳥モツの行方」



「鳥モツの行方」

斉藤真伸です。

・おとうとよ忘るるなかれ天翔ける鳥たちおもき内臓もつを

この作品を一口で言うなら、一種の「発見」の歌です。言われてみれば確かにそうですよね。大空を軽々と飛び回っている鳥たちも、「物質」から成り立っている以上、必ず“質量”を持っているはずなんですから。さらにいうなら「天翔ける鳥たち」は、想像力や幻想といったものの暗喩であり、それに対して「おもき内臓」は“現実”の暗喩です。

“おとうと”は、この一首に限っていえば、実体を持った存在ではなく、歌の内容を深めるための役割を帯びたキャラクターとして捉えた方がいいでしょう。どんなに気の利いた言葉でも、自分ひとりだけで呟いているだけでは滑稽なだけです。この歌の場合、読者と作者の間に“おとうと”という存在を置くことによって、下句の言葉が「独り言」に終わってしまうのを回避しています。

あ、「弟」ではなく「おとうと」なのにも注目してください。平仮名にすることによって、歌の「見た目」が軽やかになっています。この歌の場合だと、なんとなく漢字では無駄に重い。このへんのことがわかるかわからないかが、歌の優劣を決めます。

 この歌の作者は伊藤一彦さん。笹師範の宮崎旅行記に登場した歌人ですから、みなさんもう名前はご存知だと思います。一九四三年宮崎県生まれ。大学卒業後は宮崎県に戻り、故郷の風土に根ざした歌を作り続けています。この歌は

歌集『瞑鳥記』に収録されています。

宮崎といえば超がつくぐらい有名な歌人の出生地です。そう、若山牧水です。

・白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 という作品は、中学高校の国語教科書には必ず載っているはずです。この歌もまた、己のなかの純粋性と「現実」との葛藤がテーマになっています。伊藤さんが牧水のこの一首を意識しなかったはずはありません。なにせ三省堂『現代短歌大事典』の若山牧水の項の執筆者は伊藤一彦なんですから。

 牧水の一首と比べますと、伊藤さんの「おとうと〜」の歌は、「現実と正面から対決しよう」という意識がより明確であるように思います。「忘るるなかれ」には、文字通り「現実を忘れるな」という警告と、「現実を空想の翼で乗り越えてしまえ」という励ましの両方が込められているように思えます。

 伊藤さんは作品も人柄も「真面目だなー」としばしば思うんですが、それだけに終わらないのは、その胸の裡に厳しくも激しいロマンチシズムを抱え込んでいるからでしょう。そして故郷・宮崎への愛情。

 一九九五年刊行の伊藤さんの第六歌集『海号の歌』の冒頭に、「旅人」という僕の大好きな連作があります。


・わが家の濃き影の中ひむかしへ吹きぬけてゆく風は旅人

・はるかなる海を月かげ浴びながら憩(やす)まず飛ぶか鳥は旅人

・冬川の底にかがやき天降(あも)りたるものにあらねど石は旅人

・こまやかに光満ちゐる水の上(へ)をかげなく過ぐる霊は旅人

・垂乳根(たらちね)の母をむらさきつつみゐるゆふべ不在の父は旅人

・あらたまるなき人間(じんかん)を照らしつつしろがね円(まろ)き月は旅人

・緑濃き曼珠沙華の葉に屈まりてどこにも往かぬ人も旅人

・極月の竹のはやしに目をつむりわれ消してをり時は旅人



 それぞれ異なる光景が「〜は旅人」というフレーズによってひとつにつながり、だんだんと作者の人生観というか世界観が形作られていく様は圧巻です。僕は三首目が一番好きですね。

ところで、短歌の連作というと、「歌をつなげけひとつのストーリーを描く」ことだと思っている人がときたまいますが、それは間違いです。それは小説やエッセイ、紀行文などの役割です。短歌における連作は、あるひとつのテーマ、あるひとつのモチーフをどれだけ多様に描けるかが勝負だと思っています。連作を通じて読者に伝えられるべきは、あくまで作者の感情や情感であって、ストーリーや、ましてや情報ではありません。歌と散文は決定的に違うのです、ということを申したところで今回は終わりにさせていただきます。
posted by www.sasatanka.com at 05:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月06日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

斉藤真伸です。

今回紹介するのは江戸雪さんの歌集『椿夜』(砂子屋書房・二〇〇一年刊)です。江戸雪さんは「塔短歌会」所属の女性歌人として有名です。

・それにしても君は静かだしまうまが縞を翳らすゆうぐれのなか

 この歌の「しまうま」が実際のものかどうかを議論するのは全く意味がないことでしょう。むしろそこに込められた作者の心情に想いを巡らす方が面白い(ユニークな相聞歌です)。「縞を翳らす」という描写がみごと。この描写が読者の心に突き刺さるからこそ、この一首は確かな「リアリティ」を得ることができるのです。言い換えれば、「しまうま」がただいるだけでは「絵空事」としか感じられないのに、「縞を翳らす」という描写が付加されることによって、読者は「しまうま」から“生命力”を感じることができるのです。

・改札をぬけて放った傘の黄を身にかざしたら逢いたくなるよ

 これも相聞歌。想い人に逢いにいく途中でしょうか。「改札をぬけて放った傘の黄」という印象的な描写が歌を引き締めています。
 歌集の帯で、江戸さんの師である河野裕子さんが「手ざわりのある身体感覚」という言葉を用いています。この「手ざわり」や「身体感覚」は、言い換えれば「リアリティ」ということです。
 「私は彼(彼女)のことが好き」ということだけ述べていては、つまらない相聞歌にしかなりません。なぜなら読者からすれば「ああそうですか」という言葉しか浮かばないからです。江戸さんの作品と凡百の相聞歌との違いは、「縞を翳らす」「改札をぬけて放った傘の黄」という印象的で鮮烈なイメージがあるかないかに尽きます。人は他人の「のろけ話」には苦笑しかしませんが、鮮烈なイメージには心を動かされます。

・社会人になっちゃいましたとメイル来る春の机の刃のような光(かげ)

 このメイルの送り主についての情報はまったくありませんが、「なっちゃいました」という口ぶりから、学校を出てしばらく職につかずぶらぶらしていた人かもしれません。「春の机の刃のような光」という描写に、作者の「彼(彼女)」を応援する気持ちと、「この人大丈夫かしら」という危惧の両方が込められています。

他にも紹介したい作品はありますが、今回はこのくらいで。江戸さんは歌壇外での読者をもっと得てもいい作者だと僕なんかは思います。それだけのポピュラリティと愛唱性は備えている作者です。
posted by www.sasatanka.com at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月07日

「お題」募集!&秀歌鑑賞

どうも笹師範です。

まずは、お知らせから。

朱川湊人(小説)×笹公人(短歌)
「遊星ハグルマ装置」
遅ればせながら更新しました!
今回は僕の短歌
「悪夢の証明」
です。

森村誠一か!

風邪をひいて熱にうなされている時に書いたので、
作品がいつも以上に病んでいます。

たしかに病んでるし、壊れてる……。

久世さんみたいに「美しく壊れてる」と言ってくれ。


映画「その日のまえに」
大好評のようで、喜んでいます。
観てくれた方、ぜひ感想を書き込んでください。

次の「お題」ですが、
今回はみなさんのリクエストでやってみようかなと思います。
こんな「お題」で書いてみたいというのがありましたら、
どんどん書き込んでください!

なるべく、つくりやすく、創作意欲が刺激されるものにしてほしいです。
マニアックなものでもかまいません。

これぞというのがありましたら、採用します。
なければ、自分で考えます。
締め切りは9日(日)いっぱいまでとさせて頂きます。

楽しい「お題」を期待してます!

斉藤真伸さんの「秀歌鑑賞」が届きました。
今回は、島田修三さんの歌です。
お楽しみください!

よろしく哀愁☆

____________________


「道交法違反のうた」

斉藤真伸です。

・なよたけの美少女乗せてボロ自転車こぐ痩せぎすは俺の倅ぞ

「自転車」という主題で現代短歌を一首あげてみろ、と言われたら、僕なんかがまっさきに思い浮かぶのはこの一首です。また、「息子」というお題でも、たぶん何番目かにこの歌が来ますね。
 この歌の作者は島田修三さん(一九五〇年生まれ 神奈川県出身)といいまして、大学の国文学の先生です。普通、国文学の先生というと地味なおとなしい紳士、といったイメージがあるんですが、島田さんにはまったくそんな印象はなく、露悪的かつ過激な作風の作者として知られています。

・巨きなる睾丸は垂れハスキー犬楚楚たる少女にしたがひ往くも
(『離騒放吟集』より)

 まあ、この一首を引くだけでご理解いただけたかと思います。ちなみにこの人には他にも『晴朗悲歌集』『東海憑曲集』『シジフォスの朝』『東洋の秋』といった歌集があります。最初の三冊(『離騒放吟集』『晴朗悲歌集』『東海憑曲集』)は仰々しいのに、そのあとに出た二冊(『シジフォスの朝』『東洋の秋』)は思いっきりシンプルですね。それはさておき、「なよたけの〜」の歌は『東海憑曲集』に収録されています。

 そんな作風のなかで、「なよたけの〜」の一首は一見さわやかな印象を与えます。だから多くの人に愛される歌となっているんですが。

 素直に読めば、「はははあれをみろ、あんなきれいな女の子を後ろにのせてうちの倅が必死にボロ自転車をこいでやがる。あいつもなかなかやるもんだねぇ」という解釈になるでしょう。つまりかわいい女の子と仲良くなった(かに見える)自分の息子を自慢したい気持ちがテーマです。
 でもこの歌はそんなに単純でしょうか。その一方で、「あ、あんなかわいいコをひっかけやがって。生意気だぞ倅のヤロー」という気持ちも見え隠れする気がします。「父と息子」ってのはもう永遠のライバル関係ですからね。その辺りが「ボロ自転車」「痩せぎす」という言葉の選択に見え隠れするような気がします。
 単純な「息子自慢」だったら、多くの人の心を捕らえるはずがないんですよ。この歌にごくわずかに含まれている「負の感情」に、
みんな本能的に気づいているんだと思います。

 歌が描いているビジュアル自体は単純明快。しかし込められた感情はけっこう複雑。このふたつの要素がこの歌を秀歌たらしめています。

 「なよたけ」は漢字だと「弱竹」。「旺文社古語辞典』によれば、「細くしなやかな竹。わか竹。」のこと。「なよたけの」は、「とをよる」(撓み曲がること。寄り添うこと)にかかる枕詞です。まあ、この歌の場合、「ものすごく繊細そうな」ぐらいの意味で捉えておけばいいでしょう。「美少女」なんて言葉、歌にそのまま使うとものすごく「俗っぽい」んですが、「なよたけ」という古語と組み合わせることによって、その「俗っぽさ」からかろうじて免れています。このあたりは作者の古語に関する造詣の深さがなせる業でしょう。

 そんな島田さんにも最近、お孫さんが生まれたそうですが、その母親がこの「なよたけの美少女」かどうかは、まあ、詮索する方が野暮というものでしょう。
posted by www.sasatanka.com at 21:29| Comment(9) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月25日

秀歌鑑賞

「ぶりを喰らう」


斉藤真伸です。

先日、とあるラーメン屋に入ったところ、本宮ひろしの『男樹』というヤクザ漫画が置いてありました。暇つぶしにぱらぱらめくっていたら、主人公が昔世話になっていた住職さんがいきなり「目に青葉山ほととぎす初鰹」という山口素堂の有名な俳句について解説するシーンがあったのでちょっとビックリしました。

その住職さんによれば、この句はふと目についたあたりまえのものを並べて、「ああ今年の鰹も美味かろう」と思った、ただそれだけの内容です。しかしそれが実にすがすがしい。それなのに、今の人間は欲にまみれてしまい、こんな当たり前のことを描いた句すらわからな

くなっている、というのです。
 他の組と血で血を洗う抗争を繰り広げている主人公を戒めるために、住職さんはこんなことを言ったんですが、まさか本宮ひろしの漫画のキャラから、俳句の読みについて感銘を受けるとは思いませんでした。さすがは本宮ひろし、伊達に主人公が丸太ん棒ぶんまわして喧嘩する漫画を何十年も描いてないな。

・越(こし)の海のぶりを割(さ)き今宵(こよひ)は肝(きも)を食ふ腹のうるめは明日あげて食へ

 この歌の作者・土屋文明は、斎藤茂吉とならぶアララギ派の重鎮です。一八九〇年に群馬県に生まれ、一九九〇年に没しましたからたいへん長生きした人です。ですが、一般的な人気は茂吉の方が圧倒的に上です。僕自身も岩波文庫版『土屋文明歌集』(文明の自選集です)はけっこう読み込んでいるんですが、暗唱できる歌はそれほど多くありません。茂吉の歌の方がずっと憶えやすいんです。茂吉と比べると文明の歌は、どうしても生真面目、カタい、取っ付きにくいという印象があります。この歌は『自流泉』(一九五三年刊)という歌集に収録されています。戦時中に群馬県吾妻郡川戸村というところに疎開していたころに作られた歌です。

 それはさておき、この歌も、実に簡単なことしか描いていません。「越の海」とは、北陸一帯の海のこと(おそらくこの歌の場合、群馬の隣の新潟)。そこで獲れた鰤を割いて今晩はその肝(煮付けやフライにするそうです)を食べよう。それとこの鰤の腹を割いたら、なんとうるめ(鰯)が出てきたから、こいつも明日、揚げ物でもして食ってしまおう。ただそれだけです。

 「割き」「食ふ」「あげて食へ」と、一首のなかにこれだけ動詞が入っていると、普通は「うるさい」感じがするんですが、この一首の場合、むしろこの鰤(おそらく寒鰤でしょう)を味わい尽くさんとする作者の執念を感じさせます。結句の命令口調も、なんだかその必死さがかわいらしい。

 この歌に非常によく似たリズムをもった文明の作品が、もう一首あります。

・牛乳を飲み鰊(にしん)の燻製(くんせい)を切りて食(く)ひ汽車の中(なか)にて将棋(しやうぎ)をさしぬ

 こちらは『山谷集』(一九三五年刊)という歌集から。文明の第二歌集です。この歌は「網走線」という一連に収められており、文字通り北海道旅行中のものです。「ぶり」という主題に焦点をしぼってある「越の海の〜」比べると、歌としてはやや散漫ですが、捨てがたい味わいがあります。特に「鰊の薫製を切りて食ふ」という細かい動作にリアリティを感じます。

 この文章を書くために文明関連の本を何冊か調べたんですが、「越の海の〜」を特に取り上げていた本はありませんでした。もしかするとこの歌を「面白い」なんて思ってるのは僕だけかもしれません。しかし、「飲食」という観点で文明の歌を再読してみると、なかなかユーモアを感じさせるものが多いのも事実です。


・わが妻が馬肉(ばにく)を買ひて上諏訪(かみすは)の冬をこもりしこともはるけし
(『山谷集』)


・水芥子(みづがらし)冬のしげりを食ひ尽(つく)しのどかに次(つぎ)の伸びゆくを待つ

・人あれば食(しよく)のともなふ理(ことわり)を塵芥(ごみ)の中(なか)より青き葉を拾い取る
(『山の間の霧』)


・能登の海の莫告藻(なのりそ)食ふもはげみにて日に読む万葉集巻十七
(『青南集』)


・ただ魚を食ふため山より出でて来て幾度なるぞ幡豆(はづ)の海の宿
(『続々青南集』)

この原稿を書いてて気づいたんですが、文明の歌もルビがやたら多いんですよね。これはアララギの先輩である茂吉の(悪)影響なんでしょうか?
posted by www.sasatanka.com at 01:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。