2010年10月17日

お知らせ&秀歌鑑賞(by・斉藤真伸)

「姫の役やりたい人はいませんね」決めつけられて秋の教室  

笹公人『念力家族』より


学園祭のシーズン到来ですね。
この季節になると、思い出す歌があります。


もう二度とこんなに多くのダンボールを切ることはない最後の文化祭

小島なお『乱反射』より


いい歌ですねぇ。

俺ももう二度とあんなに寒い新宿西口のダンボールハウスでは暮らしたくないけどね……。

暮らしてたのかよ!!
話題のホームレス歌人の正体って、もしかして……。


それはねえけど。
ということで、
遅ればせながら、コーナーを一気にまとめて更新しました。
ぜひご覧ください!


新・あきえもんアワー

鶴太屋劇場

異能セントワールド

かんなのうた

酒井ファンタジーセンター


お知らせです。

発売中の

『NHK短歌』11月号(NHK出版)

「ジ・セ・ダ・イ・タ・ン・カ」に、
新作5首

「夏の黒魔術」

を発表しています。


『サイゾー』11月号(サイゾー)

笹公人(短歌)×江森康之(写真)「念力事報」

今回のテーマは、
芸能界と覚醒剤

タイトルは
「ポケットいっぱいの秘密」
です。

ぜひご覧ください!


すごくひさしぶりに、斉藤真伸さんが原稿を送ってくれました。
ぜひご覧ください!

よろしく哀愁☆

_____________________


「真実は些細に宿る」


…え〜と、みなさん長らくご無沙汰しておりました。斉藤真伸でございます。笹師範にもえらくご迷惑をおかけしました…。

おれの方はもっとご無沙汰だったよ!

すまんすまん。

しっかし、お前さんいままでなにやってたんだ?

実はちょっと訳あって大菩薩峠に籠っててな…。

れ、連合○軍!

やばいネタだすな! 今年のはじめ頃から、中里介山の『大菩薩峠』の読破にチャレンジしとったんだ!

名前だけはえらく有名だな。どういう話なんだ?

うむ、時は幕末、机竜之介という侍が大菩薩峠で、何の罪も無い年老いた巡礼の背中に「カメデス」とスプレーで落書きを…。

ローカルな時事ネタ出すなよ! しかも半年近く前のネタだぞ!

ローカルな話題といえば、「甲府鳥もつ煮」が「B-1グランプリ」で優勝して大ブレイクしたけど。

それがどうかしたか?

僕、モツって苦手だから食べた事ないぞ。

本当にどうでもいい…。

それはともかく、『大菩薩峠』って和歌に関するエピソードも多くあるので、そういった切り口で研究しても面白い作品だな。

 とまあ、えらく間が空いてしまいましたが、田中拓也さんの歌集『夏引』中の連作、「青い光」の残りの歌を紹介していきたいと思います。去年は東海村の臨界事故からちょうど十周年でしたね。あの事故の直後、松本の映画館で友達と「マトリックス」見たっけなぁ…と、やっぱりどうでもいいことを思い出してしまいました。


・ドラゴンズ優勝記事に見入りたる教科主任が足組み直す

・被曝者と傷つけあえば神無月の職員室に笑い起れり

・下痢気味の人多かりと腹痛の書道教師が不安げに言う



 一首め、外で起きている事態の深刻さに比べれば、本当に些細なことを述べているのですが、時間が経ってみると、この些細さが妙にリアルな味わいを醸し出してくるのが興味深い。あくまで一首として見るとさほどの作品ではないんですが、漫画でいうところの「捨てカット」のような役割を果たしています。三首めもやはり作者が当時置かれていた状況の「些細」を述べているんですが、やや説明口調なため一首めの方が面白い。

 二首めですが、これこそこの連作の要の一首だと僕は思っています。極限状態に置かれた人間のぎりぎりの支えになるのは、実は「笑い」なのではないか。上句はお笑い芸人がテレビでやったら、それこそ一発で干されるでしょうけど、ここではそういった「アブナさ」「自虐」が、不安な状況に置かれた人々(ここの場合は作者の同僚たち)を精神的に救っているわけです。
 現に、この歌集の「解説」を書いている佐佐木幸綱さん(田中さんは佐佐木さんが主宰する「心の花」所属)もこの連作について「(前略)学校の内と外とを緊張感とユーモアの振幅でうたった注目作である。」と述べています。

 そうこうするうちに、事態はだんだんと落ち着いてきました。「十月一日、午後四時過ぎ。屋内退避要請が解除」されます。


・情報の不足を告げる樽本の低き言葉に耳傾ける

・室内の息苦しさを訴える松本に明日の日課を伝える



 共に生徒の名前(おそらく仮名でしょうが)をうまく使ってリアリティを出した作品。授業の再開について告げるのと、安否確認のために生徒ひとりひとりに電話で連絡したのでしょう。「樽本」くんは以前紹介した分にも出てきましたね。「松本」くんが息苦しかったのは、精神的な逼迫感の他に、放射能をさけるために窓を閉めっぱなしにしていたせいもあったのでしょう。


・人影の途絶えし路地に数本の野菊が朝の風に揺れおり

・半旗さざめく国道沿いの核燃料加工施設に淡き日が差す

・教え子の一人なれども教頭は我らの問いに黙し答えず



 「十二月二十二日、朝。臨界事故の被曝者大内久氏が亡くなられたことを知る。享年三十五歳。」と詞書があります。一首めは死者を悼む歌として素直に読めばいいでしょう。二首め、「半旗」はもちろん死者を弔うためのものですが、「旗」というものは、ある集団の象徴です。なんでこんな自体を招いてしまったのか。かなり抑制されたかたちですが、作者の批判精神というものがここに滲み出ているように感じます。
 三首め。かなり省略された一首ですが、むしろそれゆえにドラマ性をもっています。今回亡くなった方は教頭先生のかつて「教え子の一人」でした。そして教頭先生はこの件についてはかたく沈黙を守っている。それだけしか述べていないのに、この教頭先生の沈痛な表情がなぜか鮮明に浮かび上がってきます。

 そして「十二月三十一日、午後。事故発生から三ヶ月が過ぎた。臨界事故の現場である東海村石神外宿付近を歩く」と詞書のある最後の一首。

・千年紀の風受け止める鈍色のコンクリートの壁の沈黙

 「千年紀」という初句は、この事故が起きたのが1999年という、21世紀直前だったせいもあるんでしょうが、読者に長大な時間(例えば放射性物質の半減期のような)を想起させる狙いもあったのでしょう。結句の「沈黙」が何を意味するかは、読者にゆだねられています。
 作者は今回の自体を通じて、「世の中」が以外と脆いことに気づいてしまいました。この「脆さ」に気づいてしまった作者は、「世の中」をこれまでと同じ目で見る事はもはや出来ないのです。
 「世の中」も変わりますが、それ以上に人間の内面もまた変化していくのです。


 さて、長いこと「青い光」をご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。この連作がある事件を「五七五七七」の形で説明しただけ、という凡作にならなかったのにはいくつか理由があります。
 その一つとしては、作者がある状況を上から眺める「神の視線」を完全に捨て、「市井の一市民」としての体験のみを歌にしたところが大きいでしょう。「原子力」というもの自体について作者が価値判断を「明確に」示していないことに不満な人もいるでしょうが、僕はこれで正解だと思います。
 どうしても「原子力」というテーマは政治的な争いのマトになりやすく、ひとたびそういった争いに巻き込まれると、作品自体を純粋に評価してもらうということが難しくなってしまうからです。それに、ある程度読解力のある人なら、作者がこの事故とそれを招いたものについてどのように思っているかはきちんと読み取れると思います。

 田中さんは言葉選びが端正だし、「短歌でなにを描くべきか」ということを常に考えている歌人です。もう少し評価されてもいい人だと僕は思ってます。

 「短歌往来」という雑誌の十月号に、今年宮崎県を襲った口蹄疫に翻弄される人々を描いた「いのちー口蹄疫風聞書」と題された三十三首の連作が掲載されています。
作者は笹師範も尊敬する宮崎在住の歌人・伊藤一彦さんです。さすがに宮崎という土地の風土を知り尽くしている人だけあって、有無を言わせぬ迫力を持っています。
 しかしながら、


・地区内の全頭殺処分本当にやむを得ざりしか 一二六〇〇〇頭

・こと過ぎてすべてを分りゐしごとき論評をせり痛み知らぬは



 このような作者の「批判精神」が直裁に出た作品よりも、


・報道はされず 寄り添ひ仲間なる牛の涎を舐めやりし牛

・石灰は雪のごとしも埋葬にあらぬ埋却の巨大なる穴

・緑燃ゆるどこにウイルスひそめりや 牧水文学館も休館



 といった、「事態のディティール」を描いた作品により強く惹かれるのは僕だけでしょうか?

今回はここまで。それでは、またお会いしましょう
posted by www.sasatanka.com at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月30日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

「犬も歩けば…」
 
みなさんお久しぶり。斉藤真伸です。だいぶ間が空いてしまいましたが、田中拓也さんの連作「青い光」(歌集『夏引』より)の続きをご紹介したいと思います。

さて、「臨界事故」という非常事態が起きつつあるなか、作者はなんとか妻が待つ自宅に帰り着きました。しかし、事態はますます緊迫の度合いを深めていきます。


・テレビ画面を左から右に映りたる樽本康治の白き横顔

・「想定外想定外」と語気強めアナウンサーは画面より消ゆ

・宙を飛ぶ「青い光」を思いつつ熱きシャワーを肩に浴びたり

・退避要請区域確かめほの光る南南西の空を見つめる

・長月の終わりの夜に物音もなく被曝者が徐々に増えゆく



 一首目「午後十時。テレビの報道により県が事故現場より半径十キロ以内の住民に屋内退避を要請したことを知る。」と詞書があります。ここで「はて、樽本康治って誰?」と思ってしまうのですが、この後に出てくる歌で、作者の教え子の一人だとわかります。まあ、常識的に読めば、テレビを観てたらたまたま教え子が映ってた、という歌なんですけどね。「あっ、アイツ、こんな時になにやってやがる」という驚きは当然あったでしょうが、作者は己の感情については一切言及していません。
 三首目「青い光」とは、いわゆる「チェレンコフ光」のことですね。これは四首目の「ほの光る南南西」と対になっていることにも注目してください。
 いま引いた歌だけではなく、「青い光」の一連に言える事は、作者自身の感情を直接表している言葉がほとんどないことです。作者は己の不安感、焦燥感をすべて「外界」を描くことで語ろうとしています。これは単なる「徹底的な客観」とは質の違うものです。そういう意味では五首目は、事実は事実なんでしょうが、「観念的」で、やや弱いと思います。

 さて、朝になりましたが、「十月一日、午前六時過ぎ。臨界が終息を迎えたことをテレビニュースが伝える。しかし、依然として屋内退避要請は解除されていない。鉄道もストップしたまま。」と、地域の混乱は治まっていません。しかし作者は職場である学校へ向かわねばなりません。


・鉄道の断絶告げる報道に耳凝らしつつアクセルを踏む

・「流言や飛語に惑わず落ち着いて県の通知を待ってください」

・「換気扇もエアコンも止め野外への外出等は避けてください」



 「」内のセリフはおそらくカーラジオが告げたものでしょう。誰かの台詞をそのまま五七五七七の形にしてみた歌というのはよくありますが、単なる説明のためだけの歌よりもこういったものの方がよほど気が利いていると思います。


・屋内退避要請区域より誠実に学年主任は出勤をせり

・「犬たちも歩いてました」新婚の学年主任があっさりと言う



 この二首、なんだか変だと思いませんか? 少なくともはじめて読んだとき、僕はちょっととまどいました。一首目の「誠実に」なんて言葉は、本来歌(特に客観写生の歌)ではなるべく避けるべき「主観語」なんですが、この歌の場合、なんだかとっても滑稽に響きます。この学年主任さんはおそらくは真面目で、あんまり物事に動じない性格の人なんでしょう。そして「誠実に」という一語はそんな学年主任さんの人となりやこの時の様子を、見事にデフォルメしたものだと僕は捉えました。
 二首目もなんだかおかしい。「」内もなんだかすっとぼけてますが、それ以上におかしいのが「新婚の」なんて説明。
 これは普通だと、「この場合関係ないのでは…」と思ってしまうんですが、この歌の場合は見事に、この「学年主任」さんのキャラを立たせる一語になっています。もちろん、その背後には、「この人は昨晩、新妻とどんな顔をして過ごしたのだろうか…」という作者の物思いが潜んでいます。


・休校の措置を告げんと緊急の連絡網を安部から回す

・繰り返す女の声に苛立ちて通話不能の松本を飛ばす



 作者は教師ですから、教え子たちの安全にも配慮しなければなりません。「安部」「松本」は生徒の名前。今回一番最初に引いた「樽本康治」と同じく、たぶん仮名でしょうが、具体的な名前を出す事によって、歌のリアリティはぐっと増します。一首目は完全な「おはなし歌」なので、正直あんまり面白い歌ではありません(ある事実を追っていくタイプの連作の場合、こういう歌はどうしても生まれてしまいますけど)。しかし、二首目は「繰り返す女の声」という焦点があるために、歌はぐっと引き締まっています。この「女の声」はもちろん留守電ですね。この「松本」くん一家はいったいどうしちゃったんでしょうかね。


・背面の黒板使い理学部卒の物理教師が語る臨界

・臨界の意味語り終え図書室の「物理事典」をパタンと閉じる


 これも先ほどの「学年主任」の歌と同じく、同僚教師を詠んだものです。歌に直接描かれているのは「物理教師」なんですが、彼自身だけではなく、その話を(おそらくは気味が悪いくらい)真剣に聞いている他の先生たちの姿が、読者にはくっきりと見えるはずです。
 その秘密は「背面の黒板」や「物理事典」といった小道具にあります。こういった具体的な物体は、「リアリティ」を醸し出すだけではなく、一首が描く情景の核となるからです。いわば読者の想像力の拠り所なのです。


いま「一首の核」と言いましたが、これは実景を歌ったものであろうと、作者の心象風景を歌ったものであろうと、いい歌を作ろうと思えば必要になってくるものです(もちろん、具体的な意味なんてほとんどもたずに、調べの類い稀なる心地よさで成り立っている歌もありますけどね)。

そして、ここから「青い光」の一連は、ちょっと変わった展開を見せることになります。それについてはまたの機会に。
posted by www.sasatanka.com at 02:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月02日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

ひさびさの登場!
斉藤真伸さんの「秀歌鑑賞」です。
お楽しみください!

____________________


「大板血」

みなさん、ご無沙汰しておりました。斉藤真伸です。

 戦争や災害など、社会を揺るがす出来事に遭遇してしまった人間が、それを短歌でどう表現するか。これはなかなか難しい問題です。

 短歌は「記録性」という点では散文、つまり普通の文章には遠く及びません。ただ単に出来事を五七五七七の形で記述するだけならば、散文の形でなるべく正確に記述したほうが遥に後世の役に立ちます。

 こういったテーマでは、どうしても第二次世界大戦のことははずせません。宮柊二さんのように一兵卒として戦場で戦った人もいれば、竹山広さんのように長崎で被爆した人もいます。

・ひきよせて寄り添ふごとく刺(さ)ししかば声も立てなくくづおれて伏す
(宮柊二『山西省』)

・くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川
(竹山広『とこしへの川』)


ですが今回はあえて比較的若い歌人が、ごく最近(といっても十年前ですけど)に起きた出来事を描いた歌を紹介したいと思います。

 その歌人の名は田中拓也さん。「心の花」所属。千葉県出身で、いまは茨城県で学校の先生をされています。繊細で、さわやかな歌を作る歌人です。そして田中さんが十年前に遭遇した出来事とは、茨城県東海村で一九九九年九月三十日に起きた「東海村JOC臨界事故」です。

 この事故についてはネット上にも多くの記述がありますので、詳しいことはそちらを参照してください。一口でいえば、核物質を扱う施設でずさんな作業が行われた結果、臨界状態が引き起こされてしまった事故です。いわば原子力発電所ではないところで核分裂がおきてしまったようなもので、大量の核物質が広範囲にまき散らされる寸前までいきました。

 国内の原子力事故で死者が二人もでてしまったこと、周辺地域の交通・経済が二日間にわたってマヒしたこと、そしてバケツでウラン溶液を運んでいたというすさまじい管理体制などが、世間に大きな衝撃を与えました。

 当時、田中さんは事故現場にほど近い場所にある学校に勤めていました。その時の模様が処女歌集『夏引』(ながらみ書房・二〇〇〇年)収録の「青い光」(二十九首)という一連に収められています。ちなみに「青い光」とは、核分裂がおきた時などに発生するチェレンコフ光のことです。


・関数の問題を解く少年の白き鼻梁に汗滲みたり

 「一九九九年九月三十日、午前十時三十五分。茨城県東海村のウラン加工施設において臨界事故が発生した。」と、簡潔な詞書がついています。一見大筋とは関係ないシーンからスタートするのは、映画なんかでもよくある手ですね。この一首の場合、「白き鼻梁」に滲む「汗」が、これからおきる不幸な出来事を暗示しているようにもとれます。そして、「午前一時過ぎ。父親が原発に勤務している生徒が職員室に来た。『東海がまたやりましたよ。』と東海村で原子力関連の事故が発生したことをクラス担任に伝えた。」ことから、世界は暗転します。

・会議待つ職員室の談笑に臨時ニュースが広まりて消ゆ

・百出の議論も果てて定刻に定例職員会議終わりぬ


 作者の口ぶりはあくまで平静です。ですがその平静さが、かえって事態の深刻さを際立たせます。

・家路急ぐ車の列に我も入りふと口ずさむ「夜空のムコウ」

・墨色の雨降りしきる国道をするするすると鼬(いたち)よぎれり

・キッチンに仕事帰りの妻は立ち麻婆茄子をざざと炒める


 職場から家への帰路を描いた歌が続きます。どれも日常の光景としては、とりたてておかしなものではありません。ですが、「臨界事故」というよくわからない不気味なものを背景として置いてみると、その平穏さがむしろ異常なもののように思えてきます。つまり、臨界事故という「非日常」が「日常」を侵食しているのです。

 「青い光」一連には、国の原子力政策に対する直接の批判などは出てきません。歌を補足する詞書も事実のみを淡々とのべています。そこを食い足りなく思う人もいるかもしれませんが、僕なんかはこれでいいと思います。書かれないことによってかえって強調されることだってあります。それに、「青い光」の作者を襲ったのは、その人間の思想信条などはおかまいなしに、まさしく無差別に人を殺す怪物でした。

次回もこの「青い光」を取り上げていきます。改めて読んで見ると、田中作品のシンプルさ、それゆえの芯の強さを感じます。

このごろの短歌は、文語にしろ口語にしろみんな喋りすぎ!! 短歌って決して饒舌な形式じゃないはずなのに!!
posted by www.sasatanka.com at 18:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月09日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

「このカシオミニを賭けてもいい」


みなさんこんにちは。斉藤真伸です。今回は永田和宏さんの歌をご紹介します。

 永田和宏さんといえば、歌壇を代表する男性歌人の一人であり、優秀な科学者でもあります。ですから経歴だけみるとなんだかえらく真面目そうな人間を想像してしまうのですが、その作品にはさりげないユーモアと、数々の仕掛けが隠されています。

*低血圧低体温のゆらゆらと菱沼聖子はまだ学位がとれぬ

 一九九八年刊行の『饗庭』(“あえば”と読みます)という歌集から引きました(砂子屋書房刊)。さて、みなさんはこの一首をどう読みますか?

 永田さんは大学の先生でもありますから、次のような読みも出来るのではないかと思います。「ははぁ、これは自分の教室にいる出来の悪い学生(おそらく院生)のことだな。“低血圧低体温のゆらゆらと”ってなんだかとらえどころのないフレーズだけど、たぶんぼーっとした鈍い女性だな。“菱沼聖子”ってたぶん偽名だろう」。

 ところが、この“菱沼聖子”さんの正体を知っている人間の読みは次のようになります。「なんだぁ、永田さんも漫画読むのか」。

 佐々木倫子さんの名作漫画『動物のお医者さん』は、白泉社の「花とゆめ」誌に一九八七年から一九九三年に連載されていたコメディです。今でも白泉社漫画文庫で読めるはずです。とある大学の獣医学部のドタバタした日常を描いた作品で、ヒロイン(?)であるシベリアンハスキーのチョビの可愛らしさは大きな話題になりました。

 “菱沼聖子”さんは主人公たちが通う大学の大学院生です。はっきりいってあまり出来のいい院生ではありません。“低血圧低体温のゆらゆらと”というフレーズは、このキャラクターの特徴を端的に表しています。

 この歌がにくいのは、“菱沼聖子”を、作者の教え子だと読む人間がいるであろうことを、永田さん自身がきちんと計算しているところです。で、“菱沼聖子”の正体を知っている読者はちょっとニヤっとしてしまう。
 これは自分の作中から見えてくる“自己像”を、作者自身がきちんと把握していないと出来ない芸当です。

 最近は歌のリアルがどーたらと騒がしいんですが、短歌ってそんなに難しいもんだっけ? と、僕なんかはつい思ってしまいます。その一方で、この歌は小難しい理屈からできた歌ではありませんし、構造もシンプルです。それなのに、短歌の“私性”や“自己像”の問題について、いろいろと面白い問題を提示しているように思えます。

『饗庭』から何首か引いて、今回は終わらせていただきます。

*やわらかき春の雨水の濡らすなき恐竜の歯にほこり浮く見ゆ

*わが歌をときには読みているらしき学生たちのコーヒータイム

*旧仮名のをんなといえる風情にて日傘が橋をわたりくるなり

*息子へと傾斜してゆく妻の声怒鳴られてまたはなやぎを増す
posted by www.sasatanka.com at 01:22| Comment(0) | TrackBack(1) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月22日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

「草食獣系歌人」

みなさん、こんにちは。斉藤真伸です。

前回のお題「建物」にちなみまして、次のような歌を紹介したいと思います。

・城として機能してゐし頃ならば仰ぐほかよりなき天守閣

 吉岡生夫さんの『草食獣【隠棲篇】』(青磁社)という歌集から引きました。吉岡さんは「短歌人」に所属する歌人で、ひょうひょうとした文体の底に、鋭い批評精神を隠し持った作品を作る人です。

 さて、掲出歌ですが、この歌のあとに

・白虎隊自刀の跡に立ちたれど城も天守もしかとわからぬ

とありますので、歴史に詳しい人間ならば、「あ、会津若松城だ」とすぐわかります。

 ですが、これは会津若松城だけを詠んだ歌ではありません。

 城というのは、いまでこそその土地の文化遺産か観光資源でしかありませんが、江戸時代以前はリアルな「政治権力」が存在する場所でした。農民や町民にとって天守閣は、まさに「仰ぐほかよりなき」場所なのです。日本の城の象徴ともいえる「天守閣」の元祖は織田信長の安土城だといわれてます。自分の力を四方に見せつける意味合いも強かったのでしょうね。信長はそういうことがよくわかっている人物でした。
 一首の肝として意識すべきは「機能してゐし」でしょう。
 「権力」は、人間が人間を支配するための仕組みですが、「支配する側の人間」が勝手気ままに振る舞えたかというと、そうではありません。支配者もまたそれなりに、慣習。法令、伝統といったものに縛られていました。この歌が描き出そうとしたのは、実はそう言った「権力システム」です。作者は「機能」という言葉にそういった意味合いを含ませていると読むべきでしょう。
 しかし、どんな政治権力も永遠のものではありません。「城」が象徴した武士の時代はとうに過ぎ去りました。「ゐし」という過去形が、シンプルかつ的確に、そういった歴史の流れを表しています。

 「歴史」という言葉で、土屋文明の次の一首を思い出しました。これもシンプルさのなかに、膨大な歴史をぎゅっと圧縮した一首です。

・古墓(ふるはか)の木戸(きど)開(ひら)く手に銭(ぜに)を受く亡(ほろ)びし民(たみ)か亡(ほろ)ぼしし民(たみ)か
(『ゆづる葉の下』)


 『草食獣【隠棲篇】』からもう一首引いてみます。

・硝子戸のガラスは均等ならずしてそこばく歪む大正の庭

 たぶん技術上の限界だったんでしょうけど、明治・大正期の窓ガラスって、いまの硝子のように完全な真っ平らじゃないんですよね。ですからそれを通して外を見ると、微妙に歪んでみえます。この一首はその情景をうまく捉えています。「そこばく歪む大正の庭」をどう読むかはさまざまでしょうが、「大正ってどんな時代だったんだろ。けど、どうやっても自分がそれを実体験することはできないんだよなぁ」という作者の慨嘆として僕は読みました。
 この歌に出てくるような「ガラス戸」を実体験したい方は、東京都小金井市の「江戸東京たてもの園」の高橋是清邸などを訪れるといいでしょう。ちなみに「江戸東京たてもの園」は、かの宮崎駿監督のお気に入りの場所でもあります。

 吉岡さんの作品は実にシンプルですが、その分言葉の味わいというものを知り尽くしている人なので、実作上も参考になることが多いと思います。

ところで、こんな歌もあるんですよね…。

・わが建てし家はすこしくかたむきてボールペン走るテーブルの上
posted by www.sasatanka.com at 01:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

秀歌鑑賞


「やつこらさのさ」 

みなさんこんにちは。斉藤真伸です。

・ひとすぢの香(かう)の煙のふたいろにうちなびきつつなげくわが恋

・君と見て一期(いちご)の別れする時もダリヤは紅(あか)しダリヤは紅(あか)し

・身の上の一大事とはなりにけり紅(あか)きダリヤよ紅(あか)きダリヤよ


『桐の花』「哀傷篇・哀傷篇序歌」より

明治四十五(一九一二)年六月五日、白秋は、かねてから不倫関係にあった松下俊子の夫から、姦通罪として告発されます。そして同年七月六日に、白秋と俊子は当時、東京の市谷にあった未決監に収監されてしまいました。いわゆる「桐の花」事件です。

・鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕へられにけり

・かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋(きし)みてゆく礫道(こいしみち)


 「悲しき日苦しき日七月六日」という詞書が付されています。白秋はこの当時、新進の詩人としてけっこうな名をなしていましたから、この事件は大きなスキャンダルとして新聞などに扱われました。そうでなくとも、自尊心の高い白秋としては、手を縛られて監獄に放り込まれるなんてことはとても屈辱的なことでした。ましてや俊子の夫は、いまでいうドメスティックバイオレンス男で、俊子はしょっちゅう傷を負わされていたといいますから、「俺よりも先にあっち逮捕しろよ!!」と言いたい気分ではなかったでしょうか。
 一首目、「鳴きほれて」とは、俊子との恋のことをさすのでしょうか。「鳥」「鳥」のリフレインが物悲しさをかきたてます。「逃ぐるすべさへ」とは、「監獄」だけでのことではなく、理不尽で生き難い「この世」や「社会」のことを表していると読むべきでしょう。連作の中で作者の置かれた状況を読者に示すための一首なのでしょうが、ただの説明に終わらず、どことなくファンタジックな味わいを持たせているところが白秋らしいとも言えます。

 二首目、「哀傷篇」のなかでも特に有名な一首ですね。「人間のみち」「牢獄(ひとや)みち」「馬車の軋(きし)み」「礫道(こいしみち)」といった四つの「み」の重なりが、独特のリズムを一首にもたらしています。「馬車の軋(きし)み」という体感が、さりげなく歌に盛り込まれているところにも注目してもらいたいです。

・しみじみと涙して入る君とわれ監獄(ひとや)の庭の爪紅(つまぐれ)の花

 こういった悲哀を全面に押し出した歌も白秋は作っていますが、だんだん開き直ってきたのか、ユーモアを含んだような作品も多くなってきます。

・やつこらさと飛んで下(お)りれば吾妹子(わがもこ)がいぢらしやじつと此方(こち)向いて居り

・日もすがらひと日監獄(ひとや)の鳩ぽつぽぽつぽぽつぽと物おもはする

・市谷の逢魔(あふま)が時となりにけりあかんぼの泣く梟の啼く

・梟はいまか眼玉(めだま)を開くらむごろすけほうほうごろすけほうほう


 一首目「やつこらさと飛んで下(お)りれば」の下りがなんだか漫画チック。言い換えれば自己戯画化でしょうか。「女はとく庭に下りて顫へゐたり、数珠つなぎの男らはその後より、ひとりひとりに踉けつつ匍ひいでて紅き爪紅のそばにうち顫へゐたり、われ最後に飛び下りんと身構へて、ふとをかしくなりぬ、帯に縄かけられたれば前の奴のお尻がわが身体を強く曳く、面白きかな、悲しみ極まれるわが心、この時ふいと戯けてやつこらさのさといふ気になりぬ」なんて長い詞書がこの一首にはついています。
 二首目から四首目は、いずれも聴覚に関わるものです。一首目が漫画チックなら、こちら童話、もしくは童謡調でしょうか。「ぽつぽぽつぽぽつぽと」「ごろすけほうほうごろすけほうほう」といったオノマトペが、「監獄」というシチュエーションとはいかにもミスマッチなのですが、これは白秋の計算のうちだと思います。大げさに言えば、「現実」に容易に屈しない詩人・歌人の抵抗精神、ふてぶてしさの表れです。

・監獄(ひとや)いでぬ重き木蓋(きぶた)をはねのけて林檎函よりをどるここちに

・監獄(ひとや)いでてじつと顫へて噛む林檎林檎さくさく実に染(し)みわたる


 「許されたり許されたり」という詞書が付されています。結局、白秋の実弟の奔走などにより、俊子の夫の間とは示談が成立し、同月二十日に白秋は釈放されます。白秋と俊子はその後再会し、正式に結婚するのですが、なんと一年ちょっとで別れてしまいます。あんなにドラマチックな恋愛だったのにねぇ。男と女の関係なんて、ほんとに他人にはわからないところがありますね。

 ちなみに、姦通罪は第二次大戦後、廃止になります。


僕が白秋のこれらの歌を読んで思うのは、「人間は結局、言葉と想像力さえあればいくらでも現実に抗うことができるのではないか」ということです。現実そのものを変えることはできませんが、現実の見方を変えることはいくらでもできますし、言葉があれば、その「見方」を他人に伝えることも可能です。つまり、実際に強大な力の前に膝を屈したとしても、「言葉と想像力」さえあれば、「心」まで屈しないで済むのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」といったのはキリストさんですが、なかなか含蓄のある言葉だと思います。

白秋の第二歌集『雲母集(きららしゆう)』も、なかなか面白い歌が多いのですが、これについてはまた機会を改めて紹介したいと思います。
posted by www.sasatanka.com at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月23日

秀歌鑑賞

斉藤真伸です。

「林檎姦通事件」


・君かへす朝の敷石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ


さて、前回に続いて北原白秋の『桐の花』を紹介していきたいと思います。

 岩波文庫『北原白秋歌集』(高野公彦編)付録の「年譜」によれば、明治四三(一九一〇)年九月に白秋は東京府下千駄ケ谷町(現・渋谷区神宮前)に引っ越してくるのですが、そのとき、隣家に住む松下俊子という人妻と知りあいます。白秋二五歳のときのことです。

 この俊子夫人、不幸な結婚をしておりまして、詳述は避けますが相当ひどい目にあっていたようです。そんな俊子の境遇に同情したのかどうかは知りませんが、白秋は彼女と恋におちます。『桐の花』には、そんな俊子(もちろん彼女の名前は伏せてありますが)との不倫の恋の歌が多く収録されています。

 さて、掲出歌ですが、「春を待つ間」という章の中の一首です。「君かへす」と初句で歌の状況を簡潔に説明し、「朝の敷石(しきいし)さくさくと」と具体的描写で読者の視覚的聴覚的イメージを喚起しています。「さくさくと」の後に続くべき「踏む」という語を省略しているのもうまい。そして下句の「雪よ林檎の香のごとくふれ」というフレーズで読者を、現実を離れた別世界へ誘っています。
 朝帰っていくのですから、「情事のあと」と考えるのが自然でしょう。「ふれ」という命令形には、「雪よこのか弱い女性をどうか守って欲しい」という願いが込められているのでしょうか。
 「林檎の香」は、雪を俊子が踏んで帰るときの「さくさく」という音が、白秋の心のなかで林檎を噛むときの音がと偶然重なったのでしょう。もしくは、「不倫」という「禁忌」を犯しているという意識が、旧約聖書の「アダムとイブ」の下りを思い起こさせたのかもしれません。あの話では、「林檎」は、神が人間に食べることを禁じた果実でした。
 いずれにせよ、おそろしく微細な感覚と空想力、そのどちらを欠いても成立しない歌です。

・薄青き路上の雪よあまつさへ日てりかがやき人妻のゆく

・雪の夜の紅(あか)きゐろりにすり寄りつ人妻とわれと何とすべけむ

・狂ほしき夜は明けにけり浅みどりキヤベツ畑に雪はふりつつ

・わかき日は赤き胡椒の実のごとくかなしや雪にうづもれにけり
 

掲出歌の前後にはこのような歌が並んでいます。「薄青き路上の雪」、「雪の夜の紅(あか)きゐろり」、「浅みどりキヤベツ畑」、「赤き胡椒の実」といった描写に注目していただきたいですね。
 白秋は、茂吉をはじめとする「アララギ派」と比較されることが多いのですが、その「写実派」をしのぐかも知れない描写力を持っていたことは、ぜひ憶えておきたいところです。

 白秋と俊子の関係はその後も続くのですが、明治四五(一九一二)年に、「姦通罪」の容疑で二人は捕らえられ、共に市谷の未決監に収監されてしまいます。俊子の夫の訴えによるものでした。

 これは文学者の白秋の大きな転機だとされています。そしてこの監獄でのことを歌で綴ったのが、『桐の花』収録の「哀傷篇」です。

次回はこの一連を取り上げたいと思います。
posted by www.sasatanka.com at 07:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月11日

秀歌鑑賞



「不倫は文化!」

みなさんこんにちは。斉藤真伸です。
この前、クレーンゲームで「リラックマのほっこりカフェボウルセット」を獲得しました。なんだかクレーンゲーム熱がまた再燃しそうです。

前回、長塚節の歌集について、「現在入手可能な本がない」みたいなことを書いてしまいましたが、このブログでもおなじみの歌人・松木秀さんによりますと、短歌新聞社文庫『長塚節歌集』が、現在入手可能だそうです。松木さん、どうもありがとうございました。

 さて、笹師範の『念力図鑑』(幻冬舎)をお持ちの方は、いますぐ「あとがき」を開いてみてください。そこには次のような文章が記されているはずです。

 「本書は、『念力家族』同様、一首一首、一行九字で、三〜四行の表記の仕方にした。『念力家族』は、この表記の仕方も新しいと話題になったのだが、実は北原白秋『桐の花』の初版本とまったく同じ表記の仕方なのである。『桐の花』もまたイラストが挿入されていた。歌集の表記でさえもなかなか新しいものは少ないというのである。」

 今回紹介するのは、笹師範も深くリスペクトしているこの北原白秋です。

 白秋は明治十八(一八八五)年福岡県で生まれ、昭和十七(一九四三)年に亡くなっています。この時、五十七歳ですから当時としても少し短い生涯ですね。しかし、短歌・詩・童謡の世界に、それぞれ大きな影響を与えた人物です。
 歌人としては十七歳のころから作歌を始め、後に与謝野鉄幹らの「明星」に参加(後に離脱)しています。弟子には宮柊二、木俣修といった人たちがいます。宮は「コスモス」、木俣は「形成」をそれぞれ創刊しており、現在でも“白秋系”の系譜は力強く続いています。

 性格は…一口で言えばパンクでファンキーでポップといったところでしょうか(なんだそれ)。まあ、系譜や伝記などを読むとけっこう付き合うのは大変な人だったようですが、それでも多くの人に愛されたところを見ると、やはりそれなりに魅力的な人物だったのでしょう。

 僕が今回、白秋の作品、特に最初期の『桐の花』、「雲母集」を読み返して思ったのは、“白秋って歌の骨格が思った以上に太い”ということです。白秋の作品については、「現実感がない」「思想性がない」という評価がありますが、「ホントかよ!?」という気がします。とにかく言葉がよく選び抜かれているし、きびきびとしていて、読んでいて本当に気持ちがいい。ふにゃふにゃな言葉遣いがない。時には、“写実”が売りの「アララギ派」よりも鋭い描写があるし…。そしてその匂い立つような幻想性…。う〜む、昔の歌人ってすごかったんだな。

 白秋の処女歌集『桐の花』は、大正二(一九一三)年に刊行されました。白秋二十八歳のときです。この本には短歌以外に、散文詩とも歌論ともエッセイともつかない不思議な文章「桐の花とカステラ」が収録されており、これも高野公彦編『北原白秋歌集』(岩波文庫)で読むことができます。

・春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外(と)の面(も)の草に日の入る夕

・かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし

・南風薔薇(さうび)ゆすれりあるかなく斑猫(はんめやう)飛びて死ぬる夕ぐれ

・ゆく水に赤き日のさし水ぐるま春の川瀬(かはせ)にやまずめぐるも

・馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあひびきのごと岡をのぼれば


 いずれも『桐の花』の作品です。どの歌も描写が鋭い。それでいて、変な力みがないです。いずれもさらっと流すように歌っています。文字通り「歌」のように。そう、この音楽性こそ白秋短歌の大きな特徴です。
 僕が特に好きなのは二首目ですね。「かくまでも」「黒く」「かなしき」と上句は、「か行」の音が力強く響きあっています。それが下句に入ると一転して、「は行」音、「ま行」音が中心となった柔らかい調子になります。この対比が非常に面白い。
 内容的には、現代人が読むとやや気恥ずかしい感じの相聞歌ですが、それは現代人の感情の方が劣化して弱々しくなっているからでしょう。単に「わが思ふひとのまなざし」とするのではなく、「わが思ふひとの春のまなざし」としたところも憎い。

 この歌や馬鈴薯の歌が示す通り、白秋はこの時期激しい恋をしていました。しかし、その相手は隣家の人妻でした。つまりは不倫です。そしてこの当時は「姦通罪」というものがあり、白秋とその恋人の仲は倫理的だけではなく法律的にも許されざるものでした。
 『桐の花』刊行の前年、白秋は「姦通罪」で告訴され、恋人ともども監獄に収監されてしまいます。
 次回は、この事件を詠んだ歌を紹介したいと思います。
posted by www.sasatanka.com at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月26日

秀歌鑑賞



「薬壜」 

みなさん、こんにちは。斉藤真伸です。
前回に引き続き、長塚節の「鍼(はり)の如く」を紹介していきたいと思います。

長塚節の三十七年の生涯を一言で言い表すなら、それはズバリ「失望」でしょう。節は生来病弱だったため、中学校(旧制)も中退しなければなりませんでした。実家は大地主でしたが、節の父が政治活動にかまけて家業をかえりみなくなったために衰退。生家の復興のために、節はたいへんな苦労をするはめになります。

 二十歳ごろ、正岡子規に弟子入りしますが、その子規も明治三十五(一九〇二)年にあっさり他界。その後、子規の弟子たちによって創刊された「アララギ」に参加しますが、この間、同門同志の諍いに巻き込まれたりして、だいぶ神経をすり減らします。

 生涯に何度かあった縁談はすべて破談。夏目漱石の紹介で朝日新聞に小説「土」を連載しますが、読者の反応はイマイチ。そうこうするうちに結核を患い、それがもとで命を落とします。節の評価がさだまったのは死後のことで、生前はさほどの名声は得られませんでした。節の生涯については、藤沢周平の小説『白き瓶』(文春文庫)に詳しく書かれています。


・春雨にぬれてとどけば見すまじき手紙の糊もはげて居にけり

 「鍼の如く 其一」(大正三年)より。節の歌のなかでも有名な一首です。「見すまじき」は「(他人に)見せてはならない」の意。「病院の生活も既に久しく成りにける程に、四月二十七日、夜おそく手紙つきぬ、女の手なり」という詞書が付せられています。
 この「女」とは、実は節の婚約者のことです。このときの縁談はけっこういいところまで話が進んだのですが、節の病気が原因で結局実を結びませんでした。この歌は破談になる直前の出来事を描いています。なんで「見すまじき」かと言うと、相手の女性は、家族から節に会うことを反対されていたからです。
 描写、ドラマ性、作者の心理。そういったものがぎゅっと凝縮された一首だと思います。この手紙は他人に見せてはならない。うっかり見せたら大変なことになる。それなのにその封は、糊がはげて解かれてしまっている…。心理的にはたいへん緊迫した場面なんですが、言葉のトーンはぎりぎりまで抑えられています。
 そしてこの歌のすぐあとはこんな一首です。

・薬壜(くすりびん)さがしもてれば行く春のしどろに草の花活(い)けにけり

 「五月六日、立ふぢ、きんせん、ひめじをん、などくさぐさの花もて来てくれぬ、手紙の主なり、寂しき枕頭(ちんとう)にとりもあへず」という詞書がります。婚約者が花を持って、節を見舞ってくれたのです。詞書からはなんとなく慌てた感じがするのが面白いですね。「花を活ける」というシチュエーションは、前回紹介した「白埴(しらはに)の瓶(かめ)こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり」と共通するものがあります。この来訪は節を感激させました。

・いささかも濁れる水をかへさせて冷たからむと手も触れて見し

 という一首もこの時のものです。この来訪からほどなくして、二人の関係は破局を迎えます。節の病気を忌避した彼女の家族が、二人の仲を完全に断ち切ってしまったのです。

 今回は「其一」からのみの紹介になりましたが、節の他の歌については、また機会を改めてご紹介したいと思います。

 以前岩波文庫から『長塚節歌集』が出ていましたが、現在品切のようです。僕の持っているのは旺文社文庫版ですが、こちらはとうの昔にレーベルごと絶版です。ですから、節の作品をまとめて読もうと思ったら、図書館へ行くしかありません。各種アンソロジーにもよく収録されてますけどね。
 同時期の歌人、例えば石川啄木なんかと比べると、節の歌の一般的な人気は確かにもうひとつなんですが、せめて「鍼の如く」の一連だけでも、機会があれば一回は目を通していただきたいと思います。その際は「客観写生」だなんだかんだと小難しいことを考える必要はないと思います。まずどんどん読んで下さい。

それではまた。
posted by www.sasatanka.com at 06:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月18日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

斉藤真伸です。

「あれは、いいものだ!!」

みなさんこんにちは。斉藤真伸です。

 岡井隆さんが結社誌「未来」二月号の「感想」という欄に、ちょっと興味深いことを書いていたので、ご紹介したいと思います。NHK全国短歌大会の作品や選評について触れたくだりです。

 「(前略)多少気になることがある。それは全体に、『おもしろい』歌がとられやすいということだ。どこか気がきいていて歌の中に批評精神が目立つ歌。それは江戸時代でいえば、狂歌、あるいは川柳雑俳(中略)のおもしろさに通じる。それに比べると和歌は、まともだがおもしろくない。固苦しくて退屈だ。しかし、あえていうが、短歌は、そのまともさに特質があるので一つのことを調べの豊かさで言い切ってしまうところがまさに『うた』なのである。」(p159)

 まあ、僕なりに解釈すれば、「一つのことを調べの豊かさで言い切ってしまうところこそ短歌の肝であり、内容の面白さや批評精神なんてものはそのあとからついてくる二義的なものだ」というところでしょうか。じゃあご当人の歌はどうなんですか、と言いたいところなんですが、「自分自身も、結構、狂歌風のおもしろがりや風刺性がすきではあるので、多少自作をうら切る言い分になるが」とこの後にしっかり書いてある辺りが老獪というかなんというか。食えないお人だ。

 それはさておき、この一文を読んだときに思い浮かんだのは次の一首でした。

・白埴(しらはに)の瓶(かめ)こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

 作者は長塚節。文学史には必ず名前が出てくる人です。小説「土」の作者として有名ですね。明治十二(一八七九)年茨城県生まれ。大正四(一九一五)年に三十七歳で没しています。

 この歌はもともと節の友人で歌人兼画家の平福百水が描いた秋海棠の絵の画讃(絵の説明として添える文章)として作られました。すから「(この秋海棠を活けるのに)白埴の瓶などいいではないか。霧のなか、その白埴の瓶に朝のつめたい水を汲んできた」といったところでしょうか。内容自体はさして面白いものではありません。ですから、この一首が長塚節の、いや近代短歌の名歌たる所以は、「一つのことを調べの豊かさで言い切ってしまうところ」にこそあると言えましょう。

 ところで、この一首は「画讃」です。「実景」から作られたものではありません。ですから、秋海棠の絵をみた瞬間に、節の脳裏に浮かんだ想像から生まれた一首です。それなのに歌の内容が、「実景」以上に生々しく、しかも精気をともなって読者に迫ってきます。「朝はつめたき水」の感触が手のひらに伝わってくるかのようではないですか。

 節は短歌史的には「正岡子規の唱えた写生という概念を受け継ぎ、発展させた人」という扱いになっています。しかしその一番広く知られている作品が、「想像力」から生まれたというのもなかなか面白い話ですね。もちろん、その想像力を鍛えてくれたのも、節のいう「客観写生」なんですが。

 この「白埴」の一首は、「鍼(はり)の如(ごと)く 其(その)一」という連作の冒頭に置かれています。「鍼の如く」は「其五」まであり、長塚節生涯最後の作品群としてよく知られています。

次回もこの「鍼の如く」を紹介すると同時に、節の生涯にも詳しく触れてみたいと思います。
posted by www.sasatanka.com at 06:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする