笹公人『念力家族』より
学園祭のシーズン到来ですね。
この季節になると、思い出す歌があります。
もう二度とこんなに多くのダンボールを切ることはない最後の文化祭
小島なお『乱反射』より
いい歌ですねぇ。
俺ももう二度とあんなに寒い新宿西口のダンボールハウスでは暮らしたくないけどね……。
暮らしてたのかよ!!
話題のホームレス歌人の正体って、もしかして……。
それはねえけど。
ということで、
遅ればせながら、コーナーを一気にまとめて更新しました。
ぜひご覧ください!
新・あきえもんアワー
鶴太屋劇場
異能セントワールド
かんなのうた
酒井ファンタジーセンター
お知らせです。
発売中の
『NHK短歌』11月号(NHK出版)
「ジ・セ・ダ・イ・タ・ン・カ」に、
新作5首
「夏の黒魔術」
を発表しています。
『サイゾー』11月号(サイゾー)
笹公人(短歌)×江森康之(写真)「念力事報」
今回のテーマは、
芸能界と覚醒剤
タイトルは
「ポケットいっぱいの秘密」
です。
ぜひご覧ください!
すごくひさしぶりに、斉藤真伸さんが原稿を送ってくれました。
ぜひご覧ください!
よろしく哀愁☆
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「真実は些細に宿る」
…え〜と、みなさん長らくご無沙汰しておりました。斉藤真伸でございます。笹師範にもえらくご迷惑をおかけしました…。
おれの方はもっとご無沙汰だったよ!
すまんすまん。
しっかし、お前さんいままでなにやってたんだ?
実はちょっと訳あって大菩薩峠に籠っててな…。
れ、連合○軍!
やばいネタだすな! 今年のはじめ頃から、中里介山の『大菩薩峠』の読破にチャレンジしとったんだ!
名前だけはえらく有名だな。どういう話なんだ?
うむ、時は幕末、机竜之介という侍が大菩薩峠で、何の罪も無い年老いた巡礼の背中に「カメデス」とスプレーで落書きを…。
ローカルな時事ネタ出すなよ! しかも半年近く前のネタだぞ!
ローカルな話題といえば、「甲府鳥もつ煮」が「B-1グランプリ」で優勝して大ブレイクしたけど。
それがどうかしたか?
僕、モツって苦手だから食べた事ないぞ。
本当にどうでもいい…。
それはともかく、『大菩薩峠』って和歌に関するエピソードも多くあるので、そういった切り口で研究しても面白い作品だな。
とまあ、えらく間が空いてしまいましたが、田中拓也さんの歌集『夏引』中の連作、「青い光」の残りの歌を紹介していきたいと思います。去年は東海村の臨界事故からちょうど十周年でしたね。あの事故の直後、松本の映画館で友達と「マトリックス」見たっけなぁ…と、やっぱりどうでもいいことを思い出してしまいました。
・ドラゴンズ優勝記事に見入りたる教科主任が足組み直す
・被曝者と傷つけあえば神無月の職員室に笑い起れり
・下痢気味の人多かりと腹痛の書道教師が不安げに言う
一首め、外で起きている事態の深刻さに比べれば、本当に些細なことを述べているのですが、時間が経ってみると、この些細さが妙にリアルな味わいを醸し出してくるのが興味深い。あくまで一首として見るとさほどの作品ではないんですが、漫画でいうところの「捨てカット」のような役割を果たしています。三首めもやはり作者が当時置かれていた状況の「些細」を述べているんですが、やや説明口調なため一首めの方が面白い。
二首めですが、これこそこの連作の要の一首だと僕は思っています。極限状態に置かれた人間のぎりぎりの支えになるのは、実は「笑い」なのではないか。上句はお笑い芸人がテレビでやったら、それこそ一発で干されるでしょうけど、ここではそういった「アブナさ」「自虐」が、不安な状況に置かれた人々(ここの場合は作者の同僚たち)を精神的に救っているわけです。
現に、この歌集の「解説」を書いている佐佐木幸綱さん(田中さんは佐佐木さんが主宰する「心の花」所属)もこの連作について「(前略)学校の内と外とを緊張感とユーモアの振幅でうたった注目作である。」と述べています。
そうこうするうちに、事態はだんだんと落ち着いてきました。「十月一日、午後四時過ぎ。屋内退避要請が解除」されます。
・情報の不足を告げる樽本の低き言葉に耳傾ける
・室内の息苦しさを訴える松本に明日の日課を伝える
共に生徒の名前(おそらく仮名でしょうが)をうまく使ってリアリティを出した作品。授業の再開について告げるのと、安否確認のために生徒ひとりひとりに電話で連絡したのでしょう。「樽本」くんは以前紹介した分にも出てきましたね。「松本」くんが息苦しかったのは、精神的な逼迫感の他に、放射能をさけるために窓を閉めっぱなしにしていたせいもあったのでしょう。
・人影の途絶えし路地に数本の野菊が朝の風に揺れおり
・半旗さざめく国道沿いの核燃料加工施設に淡き日が差す
・教え子の一人なれども教頭は我らの問いに黙し答えず
「十二月二十二日、朝。臨界事故の被曝者大内久氏が亡くなられたことを知る。享年三十五歳。」と詞書があります。一首めは死者を悼む歌として素直に読めばいいでしょう。二首め、「半旗」はもちろん死者を弔うためのものですが、「旗」というものは、ある集団の象徴です。なんでこんな自体を招いてしまったのか。かなり抑制されたかたちですが、作者の批判精神というものがここに滲み出ているように感じます。
三首め。かなり省略された一首ですが、むしろそれゆえにドラマ性をもっています。今回亡くなった方は教頭先生のかつて「教え子の一人」でした。そして教頭先生はこの件についてはかたく沈黙を守っている。それだけしか述べていないのに、この教頭先生の沈痛な表情がなぜか鮮明に浮かび上がってきます。
そして「十二月三十一日、午後。事故発生から三ヶ月が過ぎた。臨界事故の現場である東海村石神外宿付近を歩く」と詞書のある最後の一首。
・千年紀の風受け止める鈍色のコンクリートの壁の沈黙
「千年紀」という初句は、この事故が起きたのが1999年という、21世紀直前だったせいもあるんでしょうが、読者に長大な時間(例えば放射性物質の半減期のような)を想起させる狙いもあったのでしょう。結句の「沈黙」が何を意味するかは、読者にゆだねられています。
作者は今回の自体を通じて、「世の中」が以外と脆いことに気づいてしまいました。この「脆さ」に気づいてしまった作者は、「世の中」をこれまでと同じ目で見る事はもはや出来ないのです。
「世の中」も変わりますが、それ以上に人間の内面もまた変化していくのです。
さて、長いこと「青い光」をご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。この連作がある事件を「五七五七七」の形で説明しただけ、という凡作にならなかったのにはいくつか理由があります。
その一つとしては、作者がある状況を上から眺める「神の視線」を完全に捨て、「市井の一市民」としての体験のみを歌にしたところが大きいでしょう。「原子力」というもの自体について作者が価値判断を「明確に」示していないことに不満な人もいるでしょうが、僕はこれで正解だと思います。
どうしても「原子力」というテーマは政治的な争いのマトになりやすく、ひとたびそういった争いに巻き込まれると、作品自体を純粋に評価してもらうということが難しくなってしまうからです。それに、ある程度読解力のある人なら、作者がこの事故とそれを招いたものについてどのように思っているかはきちんと読み取れると思います。
田中さんは言葉選びが端正だし、「短歌でなにを描くべきか」ということを常に考えている歌人です。もう少し評価されてもいい人だと僕は思ってます。
「短歌往来」という雑誌の十月号に、今年宮崎県を襲った口蹄疫に翻弄される人々を描いた「いのちー口蹄疫風聞書」と題された三十三首の連作が掲載されています。
作者は笹師範も尊敬する宮崎在住の歌人・伊藤一彦さんです。さすがに宮崎という土地の風土を知り尽くしている人だけあって、有無を言わせぬ迫力を持っています。
しかしながら、
・地区内の全頭殺処分本当にやむを得ざりしか 一二六〇〇〇頭
・こと過ぎてすべてを分りゐしごとき論評をせり痛み知らぬは
このような作者の「批判精神」が直裁に出た作品よりも、
・報道はされず 寄り添ひ仲間なる牛の涎を舐めやりし牛
・石灰は雪のごとしも埋葬にあらぬ埋却の巨大なる穴
・緑燃ゆるどこにウイルスひそめりや 牧水文学館も休館
といった、「事態のディティール」を描いた作品により強く惹かれるのは僕だけでしょうか?
今回はここまで。それでは、またお会いしましょう