みなさんお久しぶり。斉藤真伸です。だいぶ間が空いてしまいましたが、田中拓也さんの連作「青い光」(歌集『夏引』より)の続きをご紹介したいと思います。
さて、「臨界事故」という非常事態が起きつつあるなか、作者はなんとか妻が待つ自宅に帰り着きました。しかし、事態はますます緊迫の度合いを深めていきます。
・テレビ画面を左から右に映りたる樽本康治の白き横顔
・「想定外想定外」と語気強めアナウンサーは画面より消ゆ
・宙を飛ぶ「青い光」を思いつつ熱きシャワーを肩に浴びたり
・退避要請区域確かめほの光る南南西の空を見つめる
・長月の終わりの夜に物音もなく被曝者が徐々に増えゆく
一首目「午後十時。テレビの報道により県が事故現場より半径十キロ以内の住民に屋内退避を要請したことを知る。」と詞書があります。ここで「はて、樽本康治って誰?」と思ってしまうのですが、この後に出てくる歌で、作者の教え子の一人だとわかります。まあ、常識的に読めば、テレビを観てたらたまたま教え子が映ってた、という歌なんですけどね。「あっ、アイツ、こんな時になにやってやがる」という驚きは当然あったでしょうが、作者は己の感情については一切言及していません。
三首目「青い光」とは、いわゆる「チェレンコフ光」のことですね。これは四首目の「ほの光る南南西」と対になっていることにも注目してください。
いま引いた歌だけではなく、「青い光」の一連に言える事は、作者自身の感情を直接表している言葉がほとんどないことです。作者は己の不安感、焦燥感をすべて「外界」を描くことで語ろうとしています。これは単なる「徹底的な客観」とは質の違うものです。そういう意味では五首目は、事実は事実なんでしょうが、「観念的」で、やや弱いと思います。
さて、朝になりましたが、「十月一日、午前六時過ぎ。臨界が終息を迎えたことをテレビニュースが伝える。しかし、依然として屋内退避要請は解除されていない。鉄道もストップしたまま。」と、地域の混乱は治まっていません。しかし作者は職場である学校へ向かわねばなりません。
・鉄道の断絶告げる報道に耳凝らしつつアクセルを踏む
・「流言や飛語に惑わず落ち着いて県の通知を待ってください」
・「換気扇もエアコンも止め野外への外出等は避けてください」
「」内のセリフはおそらくカーラジオが告げたものでしょう。誰かの台詞をそのまま五七五七七の形にしてみた歌というのはよくありますが、単なる説明のためだけの歌よりもこういったものの方がよほど気が利いていると思います。
・屋内退避要請区域より誠実に学年主任は出勤をせり
・「犬たちも歩いてました」新婚の学年主任があっさりと言う
この二首、なんだか変だと思いませんか? 少なくともはじめて読んだとき、僕はちょっととまどいました。一首目の「誠実に」なんて言葉は、本来歌(特に客観写生の歌)ではなるべく避けるべき「主観語」なんですが、この歌の場合、なんだかとっても滑稽に響きます。この学年主任さんはおそらくは真面目で、あんまり物事に動じない性格の人なんでしょう。そして「誠実に」という一語はそんな学年主任さんの人となりやこの時の様子を、見事にデフォルメしたものだと僕は捉えました。
二首目もなんだかおかしい。「」内もなんだかすっとぼけてますが、それ以上におかしいのが「新婚の」なんて説明。
これは普通だと、「この場合関係ないのでは…」と思ってしまうんですが、この歌の場合は見事に、この「学年主任」さんのキャラを立たせる一語になっています。もちろん、その背後には、「この人は昨晩、新妻とどんな顔をして過ごしたのだろうか…」という作者の物思いが潜んでいます。
・休校の措置を告げんと緊急の連絡網を安部から回す
・繰り返す女の声に苛立ちて通話不能の松本を飛ばす
作者は教師ですから、教え子たちの安全にも配慮しなければなりません。「安部」「松本」は生徒の名前。今回一番最初に引いた「樽本康治」と同じく、たぶん仮名でしょうが、具体的な名前を出す事によって、歌のリアリティはぐっと増します。一首目は完全な「おはなし歌」なので、正直あんまり面白い歌ではありません(ある事実を追っていくタイプの連作の場合、こういう歌はどうしても生まれてしまいますけど)。しかし、二首目は「繰り返す女の声」という焦点があるために、歌はぐっと引き締まっています。この「女の声」はもちろん留守電ですね。この「松本」くん一家はいったいどうしちゃったんでしょうかね。
・背面の黒板使い理学部卒の物理教師が語る臨界
・臨界の意味語り終え図書室の「物理事典」をパタンと閉じる
これも先ほどの「学年主任」の歌と同じく、同僚教師を詠んだものです。歌に直接描かれているのは「物理教師」なんですが、彼自身だけではなく、その話を(おそらくは気味が悪いくらい)真剣に聞いている他の先生たちの姿が、読者にはくっきりと見えるはずです。
その秘密は「背面の黒板」や「物理事典」といった小道具にあります。こういった具体的な物体は、「リアリティ」を醸し出すだけではなく、一首が描く情景の核となるからです。いわば読者の想像力の拠り所なのです。
いま「一首の核」と言いましたが、これは実景を歌ったものであろうと、作者の心象風景を歌ったものであろうと、いい歌を作ろうと思えば必要になってくるものです(もちろん、具体的な意味なんてほとんどもたずに、調べの類い稀なる心地よさで成り立っている歌もありますけどね)。
そして、ここから「青い光」の一連は、ちょっと変わった展開を見せることになります。それについてはまたの機会に。