「やつこらさのさ」
みなさんこんにちは。斉藤真伸です。
・ひとすぢの香(かう)の煙のふたいろにうちなびきつつなげくわが恋
・君と見て一期(いちご)の別れする時もダリヤは紅(あか)しダリヤは紅(あか)し
・身の上の一大事とはなりにけり紅(あか)きダリヤよ紅(あか)きダリヤよ
『桐の花』「哀傷篇・哀傷篇序歌」より
明治四十五(一九一二)年六月五日、白秋は、かねてから不倫関係にあった松下俊子の夫から、姦通罪として告発されます。そして同年七月六日に、白秋と俊子は当時、東京の市谷にあった未決監に収監されてしまいました。いわゆる「桐の花」事件です。
・鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕へられにけり
・かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋(きし)みてゆく礫道(こいしみち)
「悲しき日苦しき日七月六日」という詞書が付されています。白秋はこの当時、新進の詩人としてけっこうな名をなしていましたから、この事件は大きなスキャンダルとして新聞などに扱われました。そうでなくとも、自尊心の高い白秋としては、手を縛られて監獄に放り込まれるなんてことはとても屈辱的なことでした。ましてや俊子の夫は、いまでいうドメスティックバイオレンス男で、俊子はしょっちゅう傷を負わされていたといいますから、「俺よりも先にあっち逮捕しろよ!!」と言いたい気分ではなかったでしょうか。
一首目、「鳴きほれて」とは、俊子との恋のことをさすのでしょうか。「鳥」「鳥」のリフレインが物悲しさをかきたてます。「逃ぐるすべさへ」とは、「監獄」だけでのことではなく、理不尽で生き難い「この世」や「社会」のことを表していると読むべきでしょう。連作の中で作者の置かれた状況を読者に示すための一首なのでしょうが、ただの説明に終わらず、どことなくファンタジックな味わいを持たせているところが白秋らしいとも言えます。
二首目、「哀傷篇」のなかでも特に有名な一首ですね。「人間のみち」「牢獄(ひとや)みち」「馬車の軋(きし)み」「礫道(こいしみち)」といった四つの「み」の重なりが、独特のリズムを一首にもたらしています。「馬車の軋(きし)み」という体感が、さりげなく歌に盛り込まれているところにも注目してもらいたいです。
・しみじみと涙して入る君とわれ監獄(ひとや)の庭の爪紅(つまぐれ)の花
こういった悲哀を全面に押し出した歌も白秋は作っていますが、だんだん開き直ってきたのか、ユーモアを含んだような作品も多くなってきます。
・やつこらさと飛んで下(お)りれば吾妹子(わがもこ)がいぢらしやじつと此方(こち)向いて居り
・日もすがらひと日監獄(ひとや)の鳩ぽつぽぽつぽぽつぽと物おもはする
・市谷の逢魔(あふま)が時となりにけりあかんぼの泣く梟の啼く
・梟はいまか眼玉(めだま)を開くらむごろすけほうほうごろすけほうほう
一首目「やつこらさと飛んで下(お)りれば」の下りがなんだか漫画チック。言い換えれば自己戯画化でしょうか。「女はとく庭に下りて顫へゐたり、数珠つなぎの男らはその後より、ひとりひとりに踉けつつ匍ひいでて紅き爪紅のそばにうち顫へゐたり、われ最後に飛び下りんと身構へて、ふとをかしくなりぬ、帯に縄かけられたれば前の奴のお尻がわが身体を強く曳く、面白きかな、悲しみ極まれるわが心、この時ふいと戯けてやつこらさのさといふ気になりぬ」なんて長い詞書がこの一首にはついています。
二首目から四首目は、いずれも聴覚に関わるものです。一首目が漫画チックなら、こちら童話、もしくは童謡調でしょうか。「ぽつぽぽつぽぽつぽと」「ごろすけほうほうごろすけほうほう」といったオノマトペが、「監獄」というシチュエーションとはいかにもミスマッチなのですが、これは白秋の計算のうちだと思います。大げさに言えば、「現実」に容易に屈しない詩人・歌人の抵抗精神、ふてぶてしさの表れです。
・監獄(ひとや)いでぬ重き木蓋(きぶた)をはねのけて林檎函よりをどるここちに
・監獄(ひとや)いでてじつと顫へて噛む林檎林檎さくさく実に染(し)みわたる
「許されたり許されたり」という詞書が付されています。結局、白秋の実弟の奔走などにより、俊子の夫の間とは示談が成立し、同月二十日に白秋は釈放されます。白秋と俊子はその後再会し、正式に結婚するのですが、なんと一年ちょっとで別れてしまいます。あんなにドラマチックな恋愛だったのにねぇ。男と女の関係なんて、ほんとに他人にはわからないところがありますね。
ちなみに、姦通罪は第二次大戦後、廃止になります。
僕が白秋のこれらの歌を読んで思うのは、「人間は結局、言葉と想像力さえあればいくらでも現実に抗うことができるのではないか」ということです。現実そのものを変えることはできませんが、現実の見方を変えることはいくらでもできますし、言葉があれば、その「見方」を他人に伝えることも可能です。つまり、実際に強大な力の前に膝を屈したとしても、「言葉と想像力」さえあれば、「心」まで屈しないで済むのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」といったのはキリストさんですが、なかなか含蓄のある言葉だと思います。
白秋の第二歌集『雲母集(きららしゆう)』も、なかなか面白い歌が多いのですが、これについてはまた機会を改めて紹介したいと思います。