2009年02月07日

秀歌鑑賞 by・斉藤真伸

斉藤真伸です。


「この森の中心で愛をさけんだ馬鹿者」

前回、笹井宏之さんの歌集『ひとさらい』は、実に危ういバランスの上に成り立っている歌集だと申しました。それもそのはずで、空高く羽ばたいているはずのものが、ごく僅かでも「常識」という地面に足をつけてしまったら、それはたちまち転落するしかないからです。

・音を食らう仙人たちのあいだでは意外と評価の高いエミネム

 これも『ひとさらい』の中の一首ですが、この歌集のなかでは凡作でしょう。僕は洋楽にはまったく疎い人間ですが(たぶん知識がサイモン&ガーファンクルで終わってる)、エミネムという白人ラッパーが高い評価を受けていることぐらいは知っています。ですから、「意外と評価の高いエミネム」というフレーズにまったく意外性を感じません。これが同じ洋楽アーチストでも○○○○(お好きなアーチストの名前を入れてください)みたいに、知名度はあっても音楽的評価はさっぱり、みたいな人だったらまだ面白みを感じるんですが。「音を食らう仙人」も、音楽ファンや音楽関係者を容易に連想さ過ぎです。
 一口で言えばこの一首は「常識」や「世評」と安直に「ついてしまっている」のです。ですから言葉だけが異様に目立っています。


 では、「世間の常識」とかけ離れていて、その上言葉だけが変に目立つことのない歌とはなにか。例えば僕は次の一首をあげます。

・この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい

 笹井さんの歌で後世に長く残るものがあるとすれば、たぶんこの一首が筆頭なのではないでしょうか。言葉の奔放さ(穂村弘さんいうところの「わがままさ」)、味わい、意外性のすべてを含んでいます。上句、「軍手」がすばらしい。これが「手袋」だったらメルヘンチックすぎて、その時点でアウトです。「まちがえて」という言葉の展開のさせ方がうまいし、下句の「図書館」にも意外性がある。
 上句からはやや厭世的なものを感じます。「森」というのは、一般の人間社会からは一歩引いた場所の暗示でしょう。それが下句では、「図書館」という、公共の、しかも多くの人間が訪れる場所を「建てたい」という心情が吐露されるのです。僕はここに、「世界と自分との関係性」を再生させたいという作者の切実さを感じるのです。つまり、「孤独のままはやっぱり嫌だ!!」という叫びです。「まちがえて」という一語に、作者はいったいどれだけの想いを凝縮させているのでしょうか。


・人類がティッシュの箱をおりたたむ そこには愛がありましたとさ

 『ひとさらい』という歌集はこの一首で終わっています。これは僕の勝手な想像ですが、以前紹介した中澤系さんの「牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に」が作者の脳裏にあったのではないでしょうか。『ひとさらい』にはこの他に「三番線漁船がまいりますというアナウンスをかわきりに潮騒」という、明らかに「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」の本歌どりがありますが、これはあんまり成功していないと思う(笹井さんが中澤さんの歌を意識していた証左にはなると思います)。
 笹井さんの作品と中澤さんの作品は、見事な対照を成しています。
簡潔にいえば、笹井さんの作品は「生」であり、中澤さんの作品は「死」です。中澤作品の「牛乳のパックの口を開けた」は、世界との「断絶」を示しているように思えます。
 それに対し笹井作品の「ティッシュの箱をおりたたむ」という行為は、なにを意味しているのでしょうか。この「ティッシュの箱」は、おそらくもう空になっているのでしょう。しかしそれをただ捨てるのではなく、ていねいに「おりたた」んでいる。捨てるまえに「おりたたむ」ということは、その手間の分だけ「ティッシュの箱」に関わっているということです。そしてそのごく僅かな関わりを作者は「愛」と呼んだ…。
 笹井さんのこの一首を読んだと、おもい浮かべたのは山崎方代の次の一首でした。

・茶碗の底に梅干しの種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ

 方代もまた、戦傷によって半失明状態になり、世間とは疎外されたところで生きなければならなくなった人です。ずいぶんと変わったところに「愛」を見いだした、という点では二人の歌は共通しています。しかし、切実さ、孤独さの部分では笹井作品の方がやや勝っているのではないか。なぜなら、方代作品は「愛」というものの存在自体は確信しているからです。それに対し笹井作品は、「愛」というものの存在にあまり確信が持てていません(「ありましたとさ」というとぼけた口調に注意!!)。しかしそれでも「愛」を求めずにはいられないところに笹井作品の切実さがあるのです。

 さて、彼の歌はいったいどこへ向かおうとしていたのでしょうか。僕が思うに、「言葉と想像力による現実の解体と再生」が、笹井さんの歌の目的だったと思います。それは想像力によって現実を書き換えることでもあります。
 「現実」は「病」という手段で、笹井さんの心身を蝕みました。しかし、その想像力だけは、死の瞬間まで奪うことはできなかったのです。最後に、『ひとさらい』の中で僕がもっとも好きな一首をあげて、笹井さんへの弔いとしたいと思います。

・ここは銀河系のわらじ さむがりや馬鹿者どもがすあしをつっこむ


posted by www.sasatanka.com at 04:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 秀歌鑑賞(by・斉藤真伸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
斎藤さま<br />
ありがとうございます<br />
笹井さんの歌はほとんど知らないのですが、斉藤さんの文章とからめて読ませていただくと、ぐいぐいと体内に入ってくる感じです。<br />
これから多くの彼の歌に接したいと思います。ぼちぼちですが・・・。<br />
つたない文章で恥ずかしいのですが、感謝を言いたくてこれを書きました。
Posted by ダンデライオン at 2009年02月07日 07:50
平成は成人すれど昭和名残りの子は今星あひにわらぢ賣れるか<br />
<br />
逆送し半裸になりて乱入す平成生まれの新成人は<br />
<br />
昭和二十年代生まれの者としては短歌の捉へようが管理人氏や笹井さんとはだいぶ違ふわけですが、先人の作真剣に詠みぬいた末にそれぞれ詠風おありだらうことはブログ一覧して納得。とりあへず悼歌まで。
Posted by 流れの面 at 2009年02月07日 15:27
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