1月7日(水)深夜25:29〜
「ウキ→ビジュ」(中京テレビ)
ゲスト・笹公人(第4回目)
よかったら見てください!
前回「アイドル短歌」のコーナーはカットされていましたが、
今回はどうなるかな?
ということで、斉藤さんの「秀歌鑑賞」です。
よろしく哀愁☆
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斉藤真伸です。
妖怪「天井下がり」
あけましておめでとうございます。今年もよろしく。
今回取り上げます歌人は佐藤佐太郎。斎藤茂吉直系の写実派歌人として知られた人で、現代短歌の巨人と言ってもいいでしょう。
実を言いますと、僕はこれまで佐太郎の作品はあんまりちゃんと読んでなかったんです。茂吉や土屋文明、長塚節といった他のアララギ派の歌人は一応読んでるんですけど…。なんか佐太郎って生真面目で、とっつきにくい印象があったんです。
ですがこの年末年始に岩波文庫の『佐藤佐太郎歌集』をじっくり読んだら、また印象が変わりました。生真面目は生真面目だし、よく指摘されるように「客観」に徹した作品なんですけど、どことなくユーモアを感じるんです。この機会に、佐太郎の歌のいくつかについて思いのままに書いてみようかと思います。
・夜の床に心をどらしてものごとを虚構する我は年経てやまず
佐太郎は明治四十二(一九〇九)年に宮城県で生まれ、昭和六十二(一九八七)年に没しています。もともと文学好きで詩などを書いていましたが、あるとき茂吉の歌に出会い、短歌を作り始めます。そして十八歳のときに茂吉に入門。
掲出歌ですが、これは昭和六年、佐太郎二十二歳のときの作品です。第二歌集『軽風』に収録されています。いまの二十二歳ぐらいの人間と単純に比較はできませんが、随分大人びたというか老成した感じがしますね。でもそこまで自己を客観視できる人間にも空想癖があり、しかもそれをどことなく羞ずかしがっているあたりに愛敬を感じます。
歌としてのポイントは第四句「虚構する我は」でしょうか。「癖」や「こと」ではなく「我」としたところが面白い。「癖」や「こと」だと、「それはあくまで自分のなかの一部分ですよー」という“逃げ”をどうしても感じてしまいます。しかし「我」だと、なんか作者の全身というか、全存在が空想をもて遊んでいるように感じられます。
また、「夢想する」や「空想する」ではなく、「虚構する」というやや不自然で大仰な物言いが面白い。さっき述べたこととやや矛盾しますが、作者は自分の空想癖に対して抱いている「羞ずかしさ」を、このヘンな物言いで誤魔化そうとしているようにも思えます。早い話が照れ隠しですね。第二句と第四句はそれぞれ八音で破調です。前者はなんだかふわっと柔らかい感じがします。それに対して後者は、なんだか固い。同じ八音の破調でも、その効果がまったく違うのが面白い。
佐太郎の歌というと、冷徹なまでに「客観」に徹した描写がよく指摘されますが、そのベースにあるのは、この「夜の床に〜」の歌が示しているような想像力なんじゃないかな、という気がします。
・石の上にわれは居りつつ山川に蝌蚪(おたまじやくし)の流るるを見つ
・流し端(ば)にものの匂のどぶくさき朝(あした)は屋根の雪とくる音
・表通の石みちを壊(こわ)す物音は昼すぎてより間近に聞こゆ
同じ『軽風』から三首引きました。いずれも乾いたタッチの「客観写生」の歌です。しかし逆にいえば、物事をここまで凝視することは、「想像力」が乏しい人間には不可能なことなのではないでしょうか。「想像力」が豊かな人間だからこそ、物事をここまでじーっと見つめて飽きることがないのです。
「写生」や「写実」って、実は作者や読者の「想像力」と密接にからみあう技法なのではないか、最近そんな気がします。
次回も佐太郎の歌を取り上げます。
周辺に「佐太郎流」に詠む人間が多いので佐太郎短歌には比較的なじみがあるほうなのですが、最初の頃は自分も「お手本にはしやすいかもしれないけど、真面目すぎてつまらないなあ…」と思ってました(笑)結構面白いんじゃないかと思えてきたのは割と最近ですね。<br />
次回はどんな切り口になるのか楽しみです。今年もよろしくお願いします。
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人間いろいろ感覚は変化しますからね。僕も佐太郎の歌を面白いと思ったのはつい最近です。<br />
ある程度の年月を耐えて生き残った作品には、必ずなにかしら学ぶところがあるんでしょうね。
いつも楽しく拝見させていただいています。<br />
細かいことで申し訳ありませんが、佐藤佐太郎は茨城県ではなくて宮城県生まれだと思いますが・・・私のゆかりの地のそばなので気になりました。
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すんません! 年譜読み返したら、確かに宮城県生まれでした。おはずかしい。なんか思い込んでいたみたい。<br />
幼少期には北茨城あたりに住んでいたこともあったようですね。迂闊でした。ご指摘ありがとうございます。