「鳥モツの行方」
斉藤真伸です。
・おとうとよ忘るるなかれ天翔ける鳥たちおもき内臓もつを
この作品を一口で言うなら、一種の「発見」の歌です。言われてみれば確かにそうですよね。大空を軽々と飛び回っている鳥たちも、「物質」から成り立っている以上、必ず“質量”を持っているはずなんですから。さらにいうなら「天翔ける鳥たち」は、想像力や幻想といったものの暗喩であり、それに対して「おもき内臓」は“現実”の暗喩です。
“おとうと”は、この一首に限っていえば、実体を持った存在ではなく、歌の内容を深めるための役割を帯びたキャラクターとして捉えた方がいいでしょう。どんなに気の利いた言葉でも、自分ひとりだけで呟いているだけでは滑稽なだけです。この歌の場合、読者と作者の間に“おとうと”という存在を置くことによって、下句の言葉が「独り言」に終わってしまうのを回避しています。
あ、「弟」ではなく「おとうと」なのにも注目してください。平仮名にすることによって、歌の「見た目」が軽やかになっています。この歌の場合だと、なんとなく漢字では無駄に重い。このへんのことがわかるかわからないかが、歌の優劣を決めます。
この歌の作者は伊藤一彦さん。笹師範の宮崎旅行記に登場した歌人ですから、みなさんもう名前はご存知だと思います。一九四三年宮崎県生まれ。大学卒業後は宮崎県に戻り、故郷の風土に根ざした歌を作り続けています。この歌は
歌集『瞑鳥記』に収録されています。
宮崎といえば超がつくぐらい有名な歌人の出生地です。そう、若山牧水です。
・白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
という作品は、中学高校の国語教科書には必ず載っているはずです。この歌もまた、己のなかの純粋性と「現実」との葛藤がテーマになっています。伊藤さんが牧水のこの一首を意識しなかったはずはありません。なにせ三省堂『現代短歌大事典』の若山牧水の項の執筆者は伊藤一彦なんですから。
牧水の一首と比べますと、伊藤さんの「おとうと〜」の歌は、「現実と正面から対決しよう」という意識がより明確であるように思います。「忘るるなかれ」には、文字通り「現実を忘れるな」という警告と、「現実を空想の翼で乗り越えてしまえ」という励ましの両方が込められているように思えます。
伊藤さんは作品も人柄も「真面目だなー」としばしば思うんですが、それだけに終わらないのは、その胸の裡に厳しくも激しいロマンチシズムを抱え込んでいるからでしょう。そして故郷・宮崎への愛情。
一九九五年刊行の伊藤さんの第六歌集『海号の歌』の冒頭に、「旅人」という僕の大好きな連作があります。
・わが家の濃き影の中ひむかしへ吹きぬけてゆく風は旅人
・はるかなる海を月かげ浴びながら憩(やす)まず飛ぶか鳥は旅人
・冬川の底にかがやき天降(あも)りたるものにあらねど石は旅人
・こまやかに光満ちゐる水の上(へ)をかげなく過ぐる霊は旅人
・垂乳根(たらちね)の母をむらさきつつみゐるゆふべ不在の父は旅人
・あらたまるなき人間(じんかん)を照らしつつしろがね円(まろ)き月は旅人
・緑濃き曼珠沙華の葉に屈まりてどこにも往かぬ人も旅人
・極月の竹のはやしに目をつむりわれ消してをり時は旅人
それぞれ異なる光景が「〜は旅人」というフレーズによってひとつにつながり、だんだんと作者の人生観というか世界観が形作られていく様は圧巻です。僕は三首目が一番好きですね。
ところで、短歌の連作というと、「歌をつなげけひとつのストーリーを描く」ことだと思っている人がときたまいますが、それは間違いです。それは小説やエッセイ、紀行文などの役割です。短歌における連作は、あるひとつのテーマ、あるひとつのモチーフをどれだけ多様に描けるかが勝負だと思っています。連作を通じて読者に伝えられるべきは、あくまで作者の感情や情感であって、ストーリーや、ましてや情報ではありません。歌と散文は決定的に違うのです、ということを申したところで今回は終わりにさせていただきます。