斉藤真伸です。
先日、とあるラーメン屋に入ったところ、本宮ひろしの『男樹』というヤクザ漫画が置いてありました。暇つぶしにぱらぱらめくっていたら、主人公が昔世話になっていた住職さんがいきなり「目に青葉山ほととぎす初鰹」という山口素堂の有名な俳句について解説するシーンがあったのでちょっとビックリしました。
その住職さんによれば、この句はふと目についたあたりまえのものを並べて、「ああ今年の鰹も美味かろう」と思った、ただそれだけの内容です。しかしそれが実にすがすがしい。それなのに、今の人間は欲にまみれてしまい、こんな当たり前のことを描いた句すらわからな
くなっている、というのです。
他の組と血で血を洗う抗争を繰り広げている主人公を戒めるために、住職さんはこんなことを言ったんですが、まさか本宮ひろしの漫画のキャラから、俳句の読みについて感銘を受けるとは思いませんでした。さすがは本宮ひろし、伊達に主人公が丸太ん棒ぶんまわして喧嘩する漫画を何十年も描いてないな。
・越(こし)の海のぶりを割(さ)き今宵(こよひ)は肝(きも)を食ふ腹のうるめは明日あげて食へ
この歌の作者・土屋文明は、斎藤茂吉とならぶアララギ派の重鎮です。一八九〇年に群馬県に生まれ、一九九〇年に没しましたからたいへん長生きした人です。ですが、一般的な人気は茂吉の方が圧倒的に上です。僕自身も岩波文庫版『土屋文明歌集』(文明の自選集です)はけっこう読み込んでいるんですが、暗唱できる歌はそれほど多くありません。茂吉の歌の方がずっと憶えやすいんです。茂吉と比べると文明の歌は、どうしても生真面目、カタい、取っ付きにくいという印象があります。この歌は『自流泉』(一九五三年刊)という歌集に収録されています。戦時中に群馬県吾妻郡川戸村というところに疎開していたころに作られた歌です。
それはさておき、この歌も、実に簡単なことしか描いていません。「越の海」とは、北陸一帯の海のこと(おそらくこの歌の場合、群馬の隣の新潟)。そこで獲れた鰤を割いて今晩はその肝(煮付けやフライにするそうです)を食べよう。それとこの鰤の腹を割いたら、なんとうるめ(鰯)が出てきたから、こいつも明日、揚げ物でもして食ってしまおう。ただそれだけです。
「割き」「食ふ」「あげて食へ」と、一首のなかにこれだけ動詞が入っていると、普通は「うるさい」感じがするんですが、この一首の場合、むしろこの鰤(おそらく寒鰤でしょう)を味わい尽くさんとする作者の執念を感じさせます。結句の命令口調も、なんだかその必死さがかわいらしい。
この歌に非常によく似たリズムをもった文明の作品が、もう一首あります。
・牛乳を飲み鰊(にしん)の燻製(くんせい)を切りて食(く)ひ汽車の中(なか)にて将棋(しやうぎ)をさしぬ
こちらは『山谷集』(一九三五年刊)という歌集から。文明の第二歌集です。この歌は「網走線」という一連に収められており、文字通り北海道旅行中のものです。「ぶり」という主題に焦点をしぼってある「越の海の〜」比べると、歌としてはやや散漫ですが、捨てがたい味わいがあります。特に「鰊の薫製を切りて食ふ」という細かい動作にリアリティを感じます。
この文章を書くために文明関連の本を何冊か調べたんですが、「越の海の〜」を特に取り上げていた本はありませんでした。もしかするとこの歌を「面白い」なんて思ってるのは僕だけかもしれません。しかし、「飲食」という観点で文明の歌を再読してみると、なかなかユーモアを感じさせるものが多いのも事実です。
・わが妻が馬肉(ばにく)を買ひて上諏訪(かみすは)の冬をこもりしこともはるけし
(『山谷集』)
・水芥子(みづがらし)冬のしげりを食ひ尽(つく)しのどかに次(つぎ)の伸びゆくを待つ
・人あれば食(しよく)のともなふ理(ことわり)を塵芥(ごみ)の中(なか)より青き葉を拾い取る
(『山の間の霧』)
・能登の海の莫告藻(なのりそ)食ふもはげみにて日に読む万葉集巻十七
(『青南集』)
・ただ魚を食ふため山より出でて来て幾度なるぞ幡豆(はづ)の海の宿
(『続々青南集』)
この原稿を書いてて気づいたんですが、文明の歌もルビがやたら多いんですよね。これはアララギの先輩である茂吉の(悪)影響なんでしょうか?