「つらい電車です」
えー、全世界の「眼鏡っ娘マニア」の間でいま話題沸騰中なのは、時期アメリカ副大統領候補サラ・ペイリン女史だそうですが、それはさておき、「眼鏡」という言葉を聞くと思い出すのは次の一首であります。
・わが体(からだ)なくなるときにこの眼鏡はどこに置かれるのだろう
「眼鏡は顔の一部です」なんてCMコピーを思い出した人もいるかもしれませんが、この歌の場合、眼鏡は顔(肉体)とはあくまで別物です。ホントに「顔の一部」と思っているのなら、わざわざこんな心配はしないでしょう。むしろ自分の人生の相棒として、作者は眼鏡を捉えています。
それと、この歌で注目してほしいのは、眼鏡を擬人化していないことです。表現のうえでは、あくまで眼鏡はモノとして扱われています。ですから眼鏡は「どこへいく」でも「どうなる」でもなく、「どこへ置かれるのだろう」なのです。
この歌の作者は高瀬一誌といいます。一九二九年に東京で生まれ、二〇〇一年に七十一歳で没しています。長年、歌誌「短歌人」の編集発行人を務め、多くの歌人を発掘した名伯楽として知られています。掲出歌は、砂子屋書房から二〇〇二年に刊行された遺歌集『火ダルマ』(すごいタイトルだ)から引きました。
ところでこの一首、なんかへんだと思いませんか? そうです、五七五七七のうち、三句目の五音が欠落しているのです。これが高瀬短歌の特徴で、この人の作品には五七五七七の定型を守った作品がほとんどないのです(多くは三句目が欠落しています)。ついでですからこの歌集から別の歌も引いてみましょう。
・うまそうな食事の匂いをつくる人はやはり男の五十代だったな
・からっぽのミネラルウォーターのボトル蹴る最後まであそべ
・森永ミルクキャラメルこの人は幾つ持っているのだろう
こんな歌を詠むくせに、弟子筋の人間には生前、「定型をきちんと守れ」と言っていたそうですから、もうわけがわかりません。もしかすると、短歌定型を壊すことによって、逆説的にその定型の力を再認識させようとしていたのかもしれません。そう思ってこれらの作品を読むと、短歌特有の形式美がきちんと残っているから不思議です。
ところで、この歌は実はある歌の本歌取りなのです。元になった歌は次の通りです。
・私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるだろう
この歌の作者は山崎方代。一九一六年に山梨県で生まれ、一九八五年に七十歳で没しています。戦争で目を負傷してからは定職にはほとんどつかず、漂泊の人生を過ごした歌人です。しかしながらその口語を使った独特の文体にはしみじみとした味わいがあり、いまなお多くの人々に愛されています。この歌は一九八〇年に刊行された「こおろぎ」という歌集に収録されています。
二人の作品を比べてみると、おなじ「死」というテーマを扱いつつも、方代作品の方には懐かしいような温かみがあります。もしこれが「母」の歌だったらベタベタで読めたもんじゃないでしょう。やはり「父」だからいいんでしょうね。
しかし高瀬作品は、冷徹なまでに自己を突き放したところがあります。この厳しさは余人を寄せ付けません。「本歌取り」というのは、本来元の歌を尊敬・尊重した上で行うべきなのでしょうが、高瀬作品の場合、方代の本歌に喧嘩を売っているような印象すらあります。
小高賢さんという歌人は、「現代短歌の鑑賞101」(新書館)というアンソロジーの解説で、高瀬作品と方代作品が「口調、リズム」において似ていることを指摘しつつも、「しかし、(高瀬作品に)方代の愛唱性はない。高瀬はずっと散文的だ。そいて大事なところは詠嘆を拒否するところだろう。詠嘆なしの短歌の可能性はあるのか。」と、非常に興味深いことを述べています。
高瀬さんの死因は癌で、年譜などを読むと相当な長患いだったようです。
・ガンと言えば人は黙りぬだまらせるために言いしにあらず
これも『火ダルマ』から。この歌を最初読んだときには、「上っ面の同情を拒否する気高き精神」を感じたのですが、再読してみるとちょっと違うような気がしす。「おれを“そのうち死んでしまうかわいそうな人”みたいなフィルターを通してみないでくれ。ガンだろうがなんだろうがおれはおれなんだ」という、実に人間的で悲痛な叫びを感じました。
なんかテーマ的に辛気くさくなってしまいましたが、高瀬さんの歌は虚心に読んでいくと、言葉の楽しさ・面白さをたっぷり感じさせてくれるものばかりです。たとえば次のような作品なんて、他の歌人には百年経ったってとても作れません。
・伊良部の馬鹿が伊良部の馬鹿が環状線はつらい電車です
まずはじめに、高瀬一誌さんの作品に触れていただきましてありがとうございました。我々も高瀬作品を多くの方に知ってもらいたいと常日頃思ってはおりますが、少なくとも自分の場合はその労力を怠っており改めて反省しております。<br />
私が短歌人に入会したのは1999年で、2001年に他界した高瀬さんとの接点はごくわずかということになりますが、思うところを少し述べたいと思います。<br />
高瀬さんは長らく「短歌人」の編集発行の責を担い、小池光、永井陽子、藤原龍一郎など多くの歌人を見出したことは間違いありませんが、彼らは決して高瀬さんの弟子ではありません。高瀬さんは「先生」と呼ばれることを嫌っており、師弟の関係ではないのです。現在でも「短歌人に先生はいない」というのが我々の考え方です(その点、上野久雄さんを師と公言できる斉藤さんをうらやましく感じることもあります)。<br />
また、高瀬さんは「定型を守れ」ということもさることながら、「自分の後追いをしてはいけない」ということはよく言っておいででした。この独特な韻律を真似ても所詮は「似非高瀬風」にしかなりません。したがって、短歌人では高瀬さんの歌風を受け継いだ人はいません。たぶん、これからも表れないと思います。<br />
高瀬さんはご自分の歌集より短歌人の他の会員の歌集編纂を優先しました。長い歌歴ですが、生前に残した歌集は3冊しかありません。また、すべての会員に対し、頻繁に葉書で誌上作品のコメントを下さいました。欠詠者には復帰するよう促す葉書も寄せました。数百という会員数を考えると、想像を絶する労力です。まさに、短歌人のために捧げた一生といっても過言ではありません。<br />
高瀬さんは中外製薬宣伝部に所属されていたことがあります。新グロモントという栄養ドリンクの「ちかれたびー」や「ガンバラなくっちゃ」といったキャッチコピーの広告制作に携わったと聞いています。高瀬短歌の不思議さの背景にこんな一面も影響しているのではないかと考える次第です。<br />
高瀬さんが他界して7年以上が過ぎました。短歌人にも高瀬さんを知らない人がどんどん入ってきています。もちろん、それは避けることはできませんが、高瀬短歌の魅力をアピールできるよう、私もがんばっていきたいと思います。
さぞお力落しのことでしょうが、きっと笹師範のご活躍を見守っていてくださることと思います。<br />
健康にはじゅうぶん留意してこれからもがんばってください。<br />
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お忙しいなか殿堂入りコーナーの更新ありがとうございました。
コメントありがとうございます。<br />
真伸さんも喜んでいると思います。<br />
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>異能兄弟さま<br />
お悔やみのお言葉をありがとうございます。<br />
今月中には「総評」がんばります!