








その端的な例が宮崎駿の「天空の城ラピュタ」でしょう。あの作品に出てくるメカニックは、明らかに十九世紀から二十世紀初頭に考えられた「未来のメカ」が下敷きになってますが、たまらなく魅力的です。
笹師範の作品の多くも、一九七〇代から八〇年代にかけての中高生向けSF小説(この当時は「ライトノベル」ではなく「ジュブナイル」と呼ばれていました)、特に学校が舞台になっている作品に対するノスタルジーがベースになってます。
飛んでくるチョークを白い薔薇に変え眠り続ける貴女はレイコ
明け方に時の裂け目を出入りする白い小人を見てはいけない
朝焼けの空き地に何かを埋めている発掘部員の背中小さく
『念力図鑑』より
この時代はジュブナイルSFを原作にしたアイドル映画も多く作られていたことも併せて考えますと、笹短歌についての「読み」もまた変わってくると思います。
さて、今年第五十回短歌研究新人賞を受賞したのは、「六千万個の風鈴」の吉岡太朗さんでした。作品は「短歌研究」誌九月号で読めます。
最近の短歌の新人賞は女性の活躍が目立つのですが、この人は昭和六十一年生まれの男性です。非リアリズム的作品には冷たい最近の歌壇の傾向のなかで、SF的イメージを作品の基調としていることも珍しく感じました。
南海にイルカのおよぐポスターをアンドロイドの警官が踏む
二十個の宇宙に等しい記憶機が打ち捨てられる僕らを容れて
銀色の夕立のなかねむりいるアンドロイドの腕の水滴
選評のなかで選考委員のひとり・穂村弘さんも指摘していましたが、作中に描かれているSF的イメージは決して新しくありません。むしろ古くさいです。「アンドロイド」なんて言葉も、最近のSF小説ではそのまんまじゃ使ってないんじゃないでしょうか。
でも作品からは奇妙な切迫感と奇妙なリアリティ、そして奇妙な「懐かしさ」を感じます。もし自分が作品に使っているSF的イメージの「古さ」に気付いていないだけだとしたらかなり危ういのですが、もしこの「懐かしさ」まで計算していたとしたら、侮れない作者です。
SFに対する短歌からのアプローチの仕方っていろいろあるとは思うんですが、そのなかには「懐かしさ」って要素もあるよってオハナシでした。次回もこの吉岡さんの作品を中心に語っていきたいと思います。

