斉藤:いやーまいったまいった。
カワ:どうしたの?
斉藤:このまえ修理に出したパソコンが、昨日ようやく帰ってきたんだよ。
カワ:ならいいじゃない。
斉藤:ところが、「これでようやく一安心」と思ってセットしようとしたら、一緒にあずけたはずの電源ケーブルが入ってなかった…。
カワ:あちゃー。
斉藤:修理をお願いした電気店に問い合わせたら、「すいません、うちの方で入れ忘れちゃいました」だって。まったくもー。一瞬シャア少佐に謀られたかと思ったぜ。
カワ:「なんで赤い彗星が、君ごときにそんなセコイことしなきゃならんのだ!?」
斉藤:じゃあヤン・ウェンリーの仕業だ。
カワ:いい歳こいてアニメばっかり観てるんじゃない!
前回のお題は「都市伝説」でしたが、あの種の話の「リアリティ」ってどこからくるんでしょうか? それはやはり、大勢の人間によって磨かれるからだと思います。大勢の人間が語り継ぐことによって話が磨かれ、ディティールが付け加えられるのです。こうして磨かれた「都市伝説」は、ひとりの人間が考えただけではとうてい得られないリアリティを獲得することになります。
この都市伝説が持つリアリティを再現するために、多くの投稿者の方は「その都市伝説の世界の住人になりきる」という方法をとりました。
これは正解です。都市伝説のような「現実と虚構の境」にあるテーマの場合、その世界にいるキャラクターの内面にまで踏み込むような迫真性が欲しいですし、それを生むためには「なりきる」というのは有効な手段です。
ですが、あくまで視点を現実世界において、「都市伝説を信じている人々を観察して歌う」というアプローチも実は存在するのです。
・通学路なる歩道橋は夕べ怪(け)しきもの現わるるとぞ誰ものぼらず
花山多佳子さんという歌人の『草舟』(平成六年刊)という歌集から引きました。
最近でた『続花山多佳子歌集』(現代短歌文庫)という本
に載っています。おそらくは小学生の息子さんから聞いた話を歌にしたのでしょう。作者は息子さんから聞いた話が現実にあったことだとは信じてません。あくまで「学校の怪談」のようなお話だと思っています。
それなのに、この一首にはそこはかとない怪しさが漂っているのはなぜなんでしょう。
僕自身としては「誰ものぼらず」という簡潔な結句が、この一首の怪しいリアリティを生んでいると考えています。子供の世界でははこの「怪(け)しきもの」が信じられているという「事実」を、この「誰ものぼらず」は表しているからです。
また、この歌はきちんと五七五七七にはなっていません。初句は七音だし、二句は九音です。このようにわざと五七五七七の音数を崩しているものを「破調」と呼びます。この歌の場合、その「破調」が、読者をうねうねとした怪しい世界へ誘い込むかのような効果をあげているのです。作者自信はその話を信じていないはずなのに、歌のムードは怪しいだなんて、じつにヘンな感じでしょ? この「じつにヘンな感じ」こそが花山短歌の面白さなのです。ちなみに、この歌と同じ章には次のような作品もあります。
・かつて厠は家の外にありしと語りつつ頭(ず)は行き来するそのくらやみを
次回では、花山短歌の「じつにヘンな感じ」を語りつつ、「作者のキャラクターとその作品」という問題に触れていこうと思います。
斉藤:花山さんには何回かお会いしたけど、いい意味で変な人だったなー。歌人には「変な人」って多いけど、あからさまに「変」って感じじゃないんだ。「計算はどこも間違っていないのに、なぜかものすごく歪んでいる設計図」って言えばわかってもらえるかな?
カワ:君は思いっきり耐震偽造だけどな。
斉藤:やかましいわい。
2007年07月31日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック




